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「我が人生の旅路」
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第51話((感じる))

2016/05/13 00:51
 字を読むってことは、自分には結構骨のおれることである。子供の頃から眼もあんまりよくなかったし、加えて近頃は老眼もあって、字を読むことが減ったような気がしている。
 一人暮らしをするようになった大学生から新聞というものを殆ど読んだことがない。それは今も続いている。
 京都から戻って来たとき、友人から「日経新聞を毎日きちんと読んで、ゆったりした時間に地方紙(西日本新聞)を読むようにしたらいい。」、と言われたことがあった。
 その友人は、私のことを理解してくれている数少ない友の一人なのだが、その助言には従うことはなかった。
 幼い頃から自分の感覚(直感)と、人の話を直接聞くことで生きてきた身としては、新聞はそぐわない、と判断したからだ。それにもう10年以上読んでいなかったし、今更新聞はないなぁ、と思った。
 育ててくれた祖父は物知りだった。その祖父がよく口にしていたことの一つに「自分の目で確かめるまで鵜呑みにするな。」、というのがあった。
 自分の目で確かめる、というのは、そうたやすいことではない。
 だからそれを補うために、ダイレクトにそのことについて聞けるチャンネル作りに努めてきた。そう、人とのネットワークである。
 それは、立派な文字になった情報よりもうんと役に立つし、何より、自分の側にたった話を聞けるのがよい。
 そして、それらを通して感覚(直感)を研ぎ澄まして「感じる」のである。今自身はどうあるべきなのか!?
 21世紀、前世紀では「感じる」ことのできなかったこれからの未来に繋がるものを感じていきたい。
<対応年代:幼少〜50代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX))
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第50話((一歩引いて))

2016/05/13 00:50
 幼稚園児の手を引いて歩く母親が、「車が通って危ないから内側を歩きなさいって!!」、と何度も言うのだが、その子はいっこうに構わず、といった様子であった。
 そのやり取りを見て、思い出したことを含めて今回は綴ることにしたい。
 祖父は厳しかった。今、思えば、ありがたかったのだが。
 そんな祖父から幼い頃からよく、「弱虫と言われてもいいからいつも慎重でいなさい。」、と言われていた。
 そしてそれを身をもって示してくれたのが、祖母であった。祖母は、言葉にだすことなく、自然とそうなるように私を導くのが旨い人であった。
 祖母と買い物に出かけた際、道路では、車側からかなり内側(他の人と比べて)を一緒に歩いていた。(歩かされていたのかもしれないが。)
 このことが、大人になって自身の身を守ってくれることになった。
 京都から九州福岡に戻る前日、大通りに面した道路の横断歩道で信号待ちしていた時、大型トラックが運転を誤って、信号機の電柱に突っ込んできた。
 私より前に立っていた女子学生2名が衝突の風圧でバタンと倒れたのである。人間がいとも簡単に前のめりに倒れてしまった。
 その瞬間、ビックリするのと同時に、「あぁ」、と思った。人よりいつも「一歩引いて」横断歩道に立つことで事故に巻き込まれることなく助かったのだ、と。
 20代最後の年のこの経験をもって、私は、祖父の言っていたことがよく分かり、祖母が身につけさせてくれたことに感謝できたのである。
 京都から戻った私は、そのことを肝に銘じて、どこまでも慎重に生きてきたような気がしている。端から見たら臆病にみえるようなことも多々あったに違いない。
 慎重に生きるということは、なるべく人に迷惑をかけずに済むことになるだろうし、人に迷惑をかけずに済む、ということは、自由(ノンビリとした心持ち)でいられる、ということに通じていくのではないだろうか!?
 祖父母の教えを守り、自分を信頼してくれる人の役に立つためにも「一歩引いて」これからも生きていきたい。
<対応年代:幼少〜50代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
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第49話((ふと思う))

2016/05/13 00:49
 お散歩に行く公園でメイン遊具とは少し離れた場所に「滑り台」が置いてある。その「滑り台」を見た時、「あぁ、そうだよな。」と思った。
 そんなふうに思ったのは、これまでの自身の身の置き方と同じように感じたからである。
 私は、小さい頃から常に一歩引いて生きてきた。祖父の影響もあったとは思うが、その方が性に合っていたからだ。
 中学生の時、生徒会長選出においては、自身では立候補せず、陰に回って自分のことを頼りに思ってくれている友達を当選させることに努めた。
 裏方という役割は、割にあわないと思われがちのような気がする。表舞台に立ち日の目を見ることはないからかもしれない。
 しかし、自分は裏方が好きだ。なぜなら、裏方は、神輿を担ぐ脇役と、神輿に乗る主役をコーディネートすることができるからだ。
 そんな私が得た適職は、最前線の社長職ではなく、オーナーという立場で経営に携わることであった。
 50歳になる年にある契約解除(解任)を契機に実務から退くことになってしまい、さすがに当初(後5年は実務にも携わっておこう、と考えていた。)は、身の処し方に窮したが、その後、健康的に日々を過ごせるようになっていく中で、これで良かったのだ、と思えるようになった。
 そして、一段高い所から物事(自社)に必要な判断を下すことができるようになった。
 人は、望むと望まないとに関わらず、落ち着くところに落ち着いていくのではないだろうか!?
 だから焦る事無く、今の自分に与えられた役割をコツコツこなしていけば、未来はきっと切り開かれていくに違いない。
 メイン遊具ではなくなったあの公園の「滑り台」のように、ほのぼのとした存在で、残りの人生を過ごしていきたい☆
<対応年代:40〜50代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
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第48話((ない))

2016/05/13 00:48
 祖父と父のかつて通った高校(祖父の時代は中学校)に自分も同じように通っていた。今回はその高校での3年2学期の出来事を綴ることにしたい。
 一応、地元の進学校だったので、高3の2学期ともなると、大学受験に向けて皆が頑張るようになっていた。
 そんな中、中々人の言った通り受験勉強のできない私は、自分流でやっていた。
 その自分流で、校内模試の国語と世界史各1問、学年で自分だけ正解できたことで、やっと自分のやり方(特に参考書もなく、学校でもらった教科書や問題集だけで繰り返し勉強していた方法)でいいんだ、と思えるようになった。
 その後、進路についての最終面談で、いろいろな意味でお世話になってきた担任から、「日本の大学ならどこでも行けるぞ、女子大以外ならな(笑)。」、と言われた時は嬉しかった。
 そしてその先生の計らいで、私は「0番(1番の上、という意味)」、という学年順位をもらった。最後の校内模試で、ダントツ、ぶっちぎりの得点だったことで、先生のユーモアも交えて成績表に「0」と書いてあったのだ。
 生徒に配布される成績の度数分布表からも消えていたことで、クラスの友達が、「○○の成績がない、なんで!?」、と言い合っていた。
 そんなクラスメイトの言葉を聞きながら、自分流を貫き通すことで、私はついに「ない」、という超越した存在になれたような気がしたと同時に、学校(先生方)が本当に自分のことを認めてくれたのだ、と実感した。
 人と同じようにできなくてもコツコツたゆみなく努力することができれば、やがてそれは、自分流となり、必ず認めてもらえる時がくると。  
<対応年代:10代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
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第47話((ひっそりと))

2016/05/13 00:47
 父母に代わって自分を育ててくれた祖父母が亡くなってからもうだいぶ経ったなぁ、と何気なく思うことがあった。
 平凡だが、健康に気をつけて毎日、明るく、元気に過ごすことが、今の私のモットーである。
 29歳になる年に祖父を亡くし、その後、30歳になる前に祖母も亡くなってしまった。仲良く二人とも他界してしまった。
 身内のいなくなった私にとって、自分を鍛える意味では良かったが、いつ如何なる時も甘えは許されなかった。
 まぁ、失敗もしつつ、何とかやってこれたのは、若輩者だった私を支えてくれた方々があったればこそだ。きっと運が良かったのだろう。
 今思い返すに、祖父母から自身が受け継いだものは何だったのだろうか!?、と、自問自答してみた。
 その答えであるが、人生を半世紀過ぎたからこそ分かってきたのかもしれない。そう、「ひっそりと」生きる、ということを。
 平凡な日々を静かに過ごしていくことは、たやすいことではない、と実感している。それを見事に実践していた祖父母はたいしたものだ、と思う。
 まだ若かった頃には、祖父母のそういった生き方をあまり理解できていなかった。だが、今はその気持ちが良く分かるようになった。
 端から見たら、何が面白くてあんな人生を歩んでいるのか!?、と思われるかも知れないが、私も残りの人生を祖父母のように過ごせていけたら幸いである♪
 ところで、「ひっそりと」生きる、ということを可能たらしめるものは一体何であろうか?それは、経済的自立(自由)を得ることではなかろうか。
 そして、経済的自立(自由)を得ることは、何も資本家にならなくてもなしえるのだ、ということを祖父母は身をもって示してくれた。
 そのおかげで不安定になりつつある昨今においても「ひっそりと」生きる、ということができているような気がしている。
 祖父母がそうであったように、我が子孫(意志を継ぐ者)に対しても数え歳が30になるまでは生き、「ひっそりと」生きる、ということをしっかり伝えていきたい☆
<対応年代:50代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX))  
 
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第46話((心のシャッター))

2015/05/13 00:46
 私には幼少時の頃の写真が殆どない。祖父母が写真、というものをあまり好ましいものと思っていなかったが故のことである。
 しかるに、その影響を少なからず受けた小生も写真は苦手である。今回はそんな写真に対する回想、としたい。
 物心ついた頃だと思うが、祖父はたいそう立派な写真機=カメラを持っていたようだ。
 高所恐怖症になってしまった私を○○大橋の有る場所に立たせて、ポーズを取らされたのを今でもはっきり覚えている。
 が、のちになって分かったのだが、祖父はフィルムを入れずにそのカメラを利用していた。
 カメラを使って、いくら「カシャ・カシャ」やってもフィルムが入っていないので、写真にはならない。
 小学生になった頃祖父に、「じいちゃんはどうして他の人のようにカメラにフィルムを入れて写真にせんと!?。」、と聞いたことがあった。
 祖父は、「フィルムを入れて写真を撮ったら魂を吸い取られてしまうぞ。怖いからな。」、と笑いながら言った。
 「はぁ!?、そんなことがあると!?。だったらみんな魂を吸い取られようと!?。」と半信半疑で私は祖父に言い返した。
 すると祖父は、「ばあちゃんに後は聞いとけ。」、と言って寝てしまった。
 しょうがないなぁ、と思い、祖母に同様の質問をした。
 祖母は、「カメラで写真を撮ることは簡単やろ。写真にしておけば後で見ることもできるし、他の人にも見せられるし、便利やね。でもね、写真のなかった時代は、その大切な瞬間を心にぐっと留めるようにしてきたんやね、じいちゃんもばぁちゃんも。」、と答えてくれた。
 あまり喋ることのない祖母は、それ以上のことはもう何も言わなかった。
 祖母の含みの言葉に思いを巡らした末、私は、「そうなんだ☆」、と心の中でつぶやいた。
 祖父は、フィルムの入っていないカメラのシャッターを切る時、同時に「心のシャッター」も切っていたんだ。「心のシャッター」を切ることで、思い出の一コマ一コマは、祖父の心の奥深い所に大切にしまわれているんだ、そうだったんだ、と小さいながら納得した。
 以来、私も「心のシャッター」を時折切るようになった。自然とふれた時、あるいは、ある感動する場面に出くわした時、私はカメラのシャッターよりも「心のシャッター」を優先的に切ってしまう。
 祖父母が生きていた頃よりもはるかに記録に残すことが簡単にできるようになった時代ではあるが、私は「古い人間」なのかもしれないが、祖父母が大切にした「心のシャッター」をこれからも持ち続けていたい!
<対応年代:幼少〜50代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX))   
 
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第45話((急がば回れ))

2015/05/13 00:45
 「それでは○○に答えてもらおう。」、この言葉を何度高校生の時言われたことか。今回は、高校時の勉強にまつわる出来事を綴ることにしたい。
 中3の夏休みから高校数学を勉強し始め、その後順調に学習して、高1の夏休み中に高校数学の内容を一通り終えることができた。
 当時、数学は面白いくらい頭に入ったのを覚えている。それは、数学を学ぶことが楽しかったからだと思う。
 が、学校での数学授業では、というと、反対に面白くなかった。というか、少し苦痛に思えた。
 というのも、先生が、「これでいいかな!?」、などと度々聞いてきて、常に先生の板書をチェックしていなければなかなかったからだ。
 そんな中、高1の2学期からは、化学の勉強にかなり集中して取り組んでいった。化学の先生は、国立大学の助教授だった人で、今迄受けた授業とは違うな、と感じさせられることが多々あった。
 化学の授業では、先生からの質問に答えられなければ立たされ、その後誰かがその質問に正解できない限り、ずっと立たされっぱなし、という状態だった。
 私の答える番は、いつも最後、クラスの残り全員が立たされた時で、私が答えられれば、クラスのみんなが座れるが、答えられなければ、授業の終わりまで全員立ちっぱなし、というものだった。
 ありがたいことに、質問は、私には一応答えうるものであったので、クラス全員立ちっぱなし、という状況にせずに済んだ。クラスの何人かからは、「助かるよ、ありがとね。」、などと言われた。
 今思えば、英語や国語でも難しい質問は、いつも自分が答えさせられていたし、体育の授業中も英語で答えさえられたこともあった。ヤレヤレである。
 でもそれは、先生方がひとえに、私を鍛えんがためのものであったのだろう、と思う。そうでないと、授業中「ボー」っとしていたに違いないからである。
 祖父・父と学んだ学校に行けて良かったと思っている。授業中は緊張感を持って集中しておかなければならなかったが、それ以外は、本当に自由にさせてくれた高校である。
 高2になってからは、物理って面白いなぁ(教えてくれる先生が良い面で変わっていたことが功を奏した。)、ってことで、グングン勉強した。
 物理が一段落した後は、世界史にはまってしまった。教えてくれた先生の影響もあって、フランス革命を自分なりにじっくり勉強して、レポートにまとめて先生に提出した。
 そして高校生活最後の夏休みは、受験勉強だけやってても面白くなかったので、ナウマン象のことを勉強した。
 何故、ナウマン象、かというと、理科の先生の一人からナウマン象の話を聞いたことがきっかけとなって、自身で調べたくなったためである。
 ナウマン象について調べ、レポート作成していくことは、小学校時の夏休みの自由研究みたいで実に楽しかった♪
 家(祖父)の方針で、私は課外授業に行くことはしていなかったので、レポート作成時間は十分に持つことができた。
 端から見れば、直接、受験には役立ちそうもないことをやっているように思われたかもしれないが、それ=その思考方法が今の私をささえていてくれる!
 「急がば回れ」、祖父が時々私に何気なく言っていたことの意味が、今はよ〜く分かる気がする。これからもノンビリ、されど確実に残りの人生を送っていきたい☆
<対応年代:10代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
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第44話((自分なり))

2015/05/13 00:44
 プライーベートでの利用車輌を軽キャンパー(と言っても普通車登録)にしてから4年が過ぎた。
 この車輌には、「Semiry45」と名付けた。
 そんな「Semiry45」であるが、なんと、総重量が1.5トン以上もある。それを660ccのエンジンで動かす訳だから、ノーマルな走行環境では、とてもまともに走れない。
 それで、乗り始めて1年経った頃から、走行環境の改善に取り組むようになった。
 いろいろなことがあったが、そんな中、「合金アース線」(オリジナル)を装着、リードジャパン製の「EMS」を装着、そしてその流れで「FFBマフラー」を装着した。
 「合金アース線」は非力で重たい車には効果があるので、「Semiry45」にもO.Kのものであった。
 「EMS」を装着後は、著しい走行環境の改善が見受けられた。これは、お世話になっている自動車整備工場も認める所であった。
 「FFBマフラー」は特許製品で、マフラー代を全額チャリティーの募金にあてる、とのことだったので、購入し、装着した。
 が、今一、走行環境が改善されたかどうか、自分にはあまり体感できなかった。ノーマルマフラーの時の方が、「EMS」の効果をより体感できていたように思えたからだ。
 それで、吸気・排気の仕組み=空気の流れを『自分なり』に学ぼうと思い、勉強していった。
 そして、ついに『自分なり』に納得のいく、ベストの走りを手に入れることができた☆
 つまり、吸気環境改善にあたっては、オリジナル(オンリー ワン)で、端(車関係者)からみたら、「なんだ!?」、と思われるに違いない仕組みになった。
 でもそれでもいい、と思っている。走行環境は、本当に改善されたのだから。
 吸気と排気のバランスがベストマッチングしたような走りを体感することができるようになったことは、嬉しい限りだ♪
 思えば、小さい頃から人と中々同じようなことができなかった自分にとっては、今も『自分なり』にしかできないようだ。
 以前、『自分なり』に物理学をやっていたのだが、やっていてよかったなぁ、とつくずく思った。そのベースがあったからこそ、今回の『自分なり』へとたどり着くことができた。
 『自分なり』、これからも大切にしていきたい!
<対応年代:40〜50代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
 
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第43話((良かったと思う))

2014/05/13 00:43
 人生には節目、というものがあるように思える。私の場合で考えるに、30歳前と50歳前がそれにあたる。
 30歳を前にして「零からビジネス」を始めねばならなくなった時は、何も考えずにただひたすら「がむしゃら」に頑張ることで道は自ずと開いていってくれた。ありがたいことであった♪
 そんな中、10年が過ぎ、あれよ、という間に20年が経過し、私も50歳を向かえる年になっていた。
 自らがまねいてしまった結果であるが、「解任」、というものをくらい、自身の予定よりも随分早く、「セミリタイア」の人生を送ることとなってしまった。
 さすがの私も3ヶ月近く、「なんなのかぁ、今の状況は!?」、と混迷していた。
 が、気持ちを切り替え、「健康のために過ごそう!」、と、これまで一度もやったことのなかった「速歩によるお散歩」をし始めた。
 思考錯誤の上、片道3.5km、折り返し場所を図書館、その図書館で休息を兼ねて読書をし、往復7km、をお散歩するようにした。
 完全にリタイアした訳ではないので、毎日必ずお散歩できるとは限らないが、なるべく勝ち越し=週4日はお散歩できるよう、心がけてきた☆
 お散歩のおかげで、体重も減少し、お腹周りもスッキリとなった。(20代の頃の胴回りに戻ったことは、実に嬉しいことだった(^o^))
 あれから1年、今思うことは、もしあのまま「解任」されずにいたら、私は「不健康」そののもだったに違いない、ということだ。
 そして、お散歩を通して新たに見ることのできたものもあり、それが「今後のビジネスチャンス」にも繋がろうとしているのは喜ばしいことである(^_^)v
 そう、このような人生を過ごせていることに大いに感謝し、残りの人生を私のことを信じてくれる僅かな人のために役立てられるよう、努めていかなければ、と、今日もお散歩しながら考えていた。
 「良かったと思う」、今の我が人生。
<対応年代:50代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
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第42話((気づき))

2014/05/13 00:42
 子供の頃、数学の別解を考えるのが好きだった。模範解答ではなく自分で考えた末、解法を導き出すことは、結果的には数学の力=考えることを大いに身につけるのに役立っていたと思う。
 もちろん、考えた末、模範解答が一番いい解法である、という結果に到り、別解を考えなくてもよかったな、と思うことも度々あった。
 大人になり数学の問題を考えることはなくなったのだが、この別解を考える、という思考パターンがひょんなことで効を奏することになった。
 利用中の外車の故障=走行不調の修理にあたり、お世話になっている車屋さん、他車業界の知人から示された故障原因は、どれも同じ=模範解答的なものだった。
 が、どうも自分自身はしっつくりいかない=十分に納得できるものではなかった。
 それで、自分なりに利用している外車に絞って考えるのではなく、もっと広く、車全般=前世紀的発想で故障原因を考えてみることにした。
 そしてある解答=原因、に到った。例えて言うなら、虫歯で痛い時に本当に痛い所ではない所を勘違いして痛い、と思ってしまうことがあるようなものである。
 さて、その結果であるが、みごと「的中」、ということになった。良かった、と思うとともに、自身で考えることの大切さを改めて感じた。
 走行不調はようやくおさまり、以前の快適な走りに戻ってくれた♪
 21世紀になり、車はもはや「電子制御カー」、となる一方だと思う。それは、車の故障が分かりづらくなっていくことを示していると思う。
 だから、自身の利用車輌においては、今迄の模範解答的なサポートだけでは対応できなかったのである。
 故障の原因を突き詰められたのは、「あっ」、とふと思った「気づき」にほかならない。
 それは、別解を考える時と同じような感覚のものだ。
 今回も何気なく思いついたこと=「気づき」は馬鹿にできないものであった。
 人と少しだけ違う考え方を持てていることに感謝し、これからも「気づき」を持てるように努力していきたい☆
<対応年代:50代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
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第41話((小さなやつ))

2014/05/13 00:41
 祖母が買ってくれた2合炊きの小さい炊飯器を大学生活から使い始めた。今回はその「小さなやつ」との思い出を綴ることにしたい。
 京都での一人暮らし、祖父母にはなるべく金銭的な迷惑はかけまいと思い、できるだけ外食はせず、「小さなやつ」でご飯を炊いて食べることにしていた。
 ご飯など炊いたことはなかったのだが、自分でご飯を炊いて食べるのは案外楽しいものであった。
 「小さなやつ」で炊けたご飯をすぐ茶碗についで「ホクホク」しながら食べる時、おかしいかもしれないが、幸せを感じていた♪
 白飯のおかずは、シーチキン缶詰やシャウエッセンのソーセージ等の一品しかなかったが、当時の私にはそれで十分であった。
 大学に行くことを許してくれた祖父には奨学金(無利息or支給)をもらうことで授業料他の負担をかけないようにし、一人暮らしでの生活面で気を使って時々何か送ってくる祖母には感謝の気持ちを忘れないようにしていた。
 そして「小さなやつ」はいつも私に「頑張れ!」、と美味しいご飯を炊き続けてくれていた☆
 当時、バブル期の多くの学生が経験したような学生生活(それなりにリッチで楽しい。)はおくれなかったかもしれないが、自分なりに充実した毎日を過ごすことができたと思っている。
 それは、学問、というものにふれることができ、それに集中することができたからだ。おかげで大学院にも進学することができた(^_^)v
 あの時代が私を強くし、その礎の上に今の私がある。「考える力」、というものを鍛えることができたのは、きっと白飯オンリーの贅沢のできない生活があったればこそだ(笑)
 今思えば、祖父母は私に貧しいが故の生活をさせていたのではなく、豊かになっても「慎ましく生きていける」ようにしてくれていたのだ、と。
 祖父母の意思をしっかり引き継ぎ、教育の場で生かしていきたい!!
<対応年代:10代〜20代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 

 
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第40話((代わりに))

2014/05/13 00:40
 中3生になった。いわゆる受験生だ。そんな事は全く気にせずに過ごしていたのだが、世の中、そんなに甘いものではなかったのである。
 中学校では実力テストなるものが中間・期末テストの合間をぬって実施されることになっていて、そのために勉強する教材=「5教科のまとめ」をドサッと渡された。
 こんなのせないかんのかなぁ、と思いつつ、家に帰って祖父に尋ねてみた。私は祖父に「ねぇじいちゃん、実力テストのための勉強とかせないかんのかねぇ。何かそのための教材をもらったんやけど。」、と言った。
 すると祖父は、「その教材で勉強した内容から実力テストの問題が出るんやったら本当の実力は分からんのやないか!?」、と答えた。
 ごもっとも、と思い、もらった教材で勉強することはしないようにしよう、と決めた。
 その日、勉強机の右端に教材を横にねかせて置いた。使うことがないので横にしておこう、と思ってのことだ。
 一学期が過ぎるのはあっという間だった。夏休みに入ってもクラブ活動の大会が終わる迄は忙しかった。
 が、クラブ活動をしなくなった後、時間ができた。いよいよ受験生の夏休み、といった感じがしていた。
 みなのように塾に行っていなかった私には学校からもらった教科書・問題集以外には何もなかった。
 そんな中、「5教科のまとめ」なるものが机に横たわっていることを再認識した。
 しかし、これは「やらん」、と決めたものだから、何かせないかん、と、ちとあせり始めていた。
 その様子をひそかにうかがっていたのか、祖父が、「これしてみらんか。退屈しのぎには丁度いいやろう。」、と言って、一冊本をくれた。
 それは、数T(高校生用)の参考書だった。
 「なんで??」、と思ったが、「まぁ、いいか。」、と思い直し、その参考書を読破=理解することに決めた。
 さて、やり始めると、以外や以外、結構面白いことが分かった。「ふん、なるほどね。」、という感じで中学校の数学の内容より分かり安いので、どんどん先に進めていくことができた☆
 私の残りの夏休みは、そう、この「数T」をやりあげることのみに費やした、といっていいだろう。(午後、祖父のすすめで運動不足にならぬようプールにだけは行くようにしていた。)
 そんなこんなで集中してやったおかげもあって、無事にやり終えることができた(^_^)v もっとも今思えば、一通りやった、というレベルではあったのだが。
 祖父は性格上、「5教科のまとめ」をしない私に対して、やらせるものを選んでくれたのであった。(中2の時のうさぎの本のように。)
 あれもこれも満遍なくできぬ私に祖父は集中できるものを今回も与えてくれた。おかげで数学が随分好きになった。
 その後二学期になっても数学の勉強を続けた。そして、高校数学の内容を終えるのには翌年の夏の終わりまでかかった。
 ところで、夏休み明けの実力テストは文字通り実力で乗り切った。運良く問題が解けて、200点満点中、4点のミスで済んだ(^o^)
 私は受験生としては失格者に違いなかった。でも、その『代わりに』それで良かったんだ、と思えるオンリーワンの15歳を過ごすことができた♪
<対応年代:10代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
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第39話((ラッキーカード))

2013/05/13 00:39
 小学校低学年の頃、TVで放送されたアニメ等の人気キャラクターのカード集めが流行ったことがあった。
 カードはスナック・ガムなどのお菓子類のおまけとしてもついていた。
 近所に「駄菓子屋」なるものが当時あって、そこではカードのみの販売もしていた。
 そのカードのみのカード集めを自分もやりたかったのだが、祖父は認めてくれようとはしなかった。
 お菓子類についているカードは、「おまけ」なので、そのカードについてはまだしも、ただ「カード」だけをお金を出して買う、ということについて祖父は理解してくれなかった。
 友達はカードを既に結構買っていたので、自分も何とかカードを買いたい、買えないものか!?、と、子供ながらに思い悩んでいた。
 「駄菓子屋」で友達がカードを買い、カードの入った紙袋をビリビリ破ってカードを取り出して、「またハズレた★」、と毎度のように言うようになっていた。
 友達がそう言うようになったのは、カードには当たり=ラッキーカード、というのがあって、それを引き当てたらカードホルダー=アルバムがもらえるので、友達はそれをもらうためにカードを買うのだが、まだ一度もラッキーカードを引き当てることができずにいたからである。
 そんな中、「そういえば、ばぁちゃんが確かお茶漬けのカードでラッキーカードをだして、東海道五十三次のアルバムをもらっていたよなぁ。」と、ふと思った。そして、「これだ!」、とひらめいた☆
 夕食時祖父に「ばぁちゃんが東海道五十三次のアルバムを貰ったように、友達の誰もまだ貰っていないアルバムのラッキーカードを引きたいのでカードを買わせて欲しい、お願いします。」、と言った。
 すると祖父は、「そんなら10円やるけ、一発で当ててこい。」と言い、夕食後10円をくれた。
 カード代は1枚当時10円だった。たった10円しかもらえなかったが、結構嬉しかった♪
 翌日「駄菓子屋」に行こうとした時、祖母が「ハズレたらもう1回がんばり!」と言って、もう10円持たせてくれた。
 もう10円もらえたのでルンルン気分になって「駄菓子屋」に行くことができた。
 「駄菓子屋」で10円払い、初めてカードを選び取った。そして気持ちを込めて紙袋を破いた。
 結果は、○=カード裏に「ラッキーカード」と赤文字で大きく書かれたカードを引き当てることに見事に成功したのであった(^_^)v
 これは、ひとえに運が良かったからに違いない。既にかなりの枚数が買われ、それが全て「ハズレ」、であったので、そろそろ当たり=「ラッキーカード」がでてもおかしくなかったのだろう。
 今思えば、祖父が時期=タイミングを見計らって私を「駄菓子屋」に行かせてくれたのでは!?、と思えてならない。
 なぜなら、1枚のカード代金が10円であったことを祖父は知っていたからだ。
 これも祖父なりの愛情=教育、であったのだろうか!?
 何事も慌てずにじっくり構えて事にあたることの大切さ(時期=タイミングさえ間違えなければ「運」がきっと見方してくれること。)を今は熟知しているつもりである。
 その後、祖母のおかげで、スナック・ガムの二つについても一発でラッキーカードを引き当てることができた。万歳、万歳!!
<対応年代:幼少> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
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第38話((心の声))

2013/05/13 00:38
 人と話をすることは「楽しい」と思う。今の私はよく喋る。
 しかし、子供時分から学生時代にかけての私は「無口」であった。今の私からは考えられない(笑)人は変わるものだ、と。
 祖父母との生活の中、二人は無口であった。とりわけ祖母は殆ど話をすることがなかった。
 そんな生活環境だったせいもあって、私も知らず知らずのうちに無口になっていたのではないか!?、と思われる。
 子供ながらに祖父母が何を今考えているか、言葉としては聞けない「心の声」を聞くように心がけていったような気がする。
 自身の心を静かにして、祖父母の気持ちに心を傾けることによってその「心の声」を受け止めることができていたと思う。
 祖父が他界する時もその「心の声」を受け止め京都から戻り、その後、祖母が他界する時も同様にその「心の声」を受け止めて生きてきたつもりである。
 身内をなくし社会人なった私にとって「無口」からの脱却は必要不可欠のなにものでもなかった。
 話をする、ということは、生きていく上で大切なことだと思えてならない。
 が、表面的な会話がそれほど大切だとは自身は思わない。その奥にある言葉にはならない「心の声」をいかに聞き、それに対し何気なく応えるか、が真に大切だと。
 言葉巧みな話術ではない、素朴でもその相手に対して「心の声」をくみ取った的確な表現ができれば、双方の人間関係は「good!」な状態を保つことができるのではないだろうか!?
 父母の顔を覚えていない私に祖父母はいつも「心の声」を与えてくれていたに違いない。そのおかげで今の私は助けられている。なぜなら、教育の現場で生徒の「心の声」を大いに感じることができるから☆
 じいちゃん、ばぁちゃん、ありがとう!
<対応年代:幼少〜40代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
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第37話((お詫び))

2013/05/13 00:37
 経営に携わるようになって自身の行動で増えたことがある。それは「お詫び」をする、ということである。
 様々な環境下において行き違いや誤解が生じることは多々ある。ましてやそれがビジネスの世界ともなるとなおさらのことである。
 お互いに利益を追求していくのだから一歩も譲れないことが起こってしまうことがある。
 その時たとえ自身が正しい、と思っても謝らないといけない状況下におかれてしまう場合がある。
 そんな状況下でムクムクと邪魔をするやっかいな代物が登場する。それは「プライド」である。
 私の知る限りある程度の知的レベルの方はこのプライドが妙に高い気がする。
 その高いプライド故に結局はその身に不利益な結果をもたらしてしまうことになり、端から見ると「ただ損をしただけ。」のように感じてしまう。
 今思うに、私にはそのプライドというやっかいな代物が殆どないようである。
 いつもまずは「お詫び」しよう!、後のことはそれからだ、と思い行動している次第だ。
 そのおかげかどうかはさだかでないが、これまで幾たびとなくピンチを切り抜けてこれたのが実感である。
 お怒りのクライアントに対してはすばやく訪問し何度も何度も「お詫び」をする。(一度の訪問で会ってもらえない場合には二度三度と訪問し、会ってもらえるようになるまで頑張るのみである。)
 そして「お詫び」をする内に先方の応対に変化の兆しが現れ、やがてそれは次第に「もう分かったから今後も宜しく。」のようなことで何とかおさまる方向に向かうのであった。ありがたいことである。
 今21世紀においては知的レベルの高い人がこの日本においては数多く存在するのであろう。
 しかし、うんと知的レベルの高い=本当に知的レベルの高い人であれば「プライド」なるものをそっと後ろに隠し、頭を垂れ、「お詫び」をすることができるに違いない。
 亡き祖父に改めて感謝している。それは、厳しく育てられた中に人としてどうあるべきか!?、ということを教えてくれたから☆
 未来を担う世代に教育というフイールドを通して「お詫び」のできる、そんな人づくりに貢献していきたい♪
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第36話((直体験))

2010/05/13 00:36
 幼少時、祖母の隣で寝ていた。今回はその寝床でのエピソードを綴りたい。
 ある日の夜、中々眠れないので、祖母に「なんか寝られん。」とつぶやいた。
 すると祖母は、「そんなら目をつぶって羊さんを心の中で数えたらいいよ。」と私にこたえてくれた。
 「ふ〜ん。」と私は何気に返事をして祖母の言われた通り羊くんを数え始めた。
 「一匹、二匹、…。」と心の中で数え始めたのはいいのであるが、羊くんを囲む「おり」を作らないといけない、と思った。
 それで、「おり」のことをあれこれ考えてやっと「おり」ができた。
 さっきまで数えていた羊くんは当然のことながらこの「おり」にはまだ入ってないので、最初からまた数え始めることになった。
 「一匹、二匹、…、…、…、〜。」と数えていったのであるが眠くなるどころかますます目がさえていくのを覚えた。
 が、祖母が言ったのだから、とさらに数え続けた。
 するとどうであろう。500匹を超えてしまった。こりゃいかん、羊くんが「おり」に入らなくなってしまった。別の「おり」を作らないと、などと考えていた。
 ちらっと横を見ると、祖母はもう寝ているようであった。
 仕方なしに私は「おり」を増やして、羊くんをまたまた数え始めた。「501匹、502匹、…、…、…、〜。」
 そうこうしている内に頭の中が羊くんだらけになっていた。「999匹、1,000匹」となった時、おもわず「寝られんやんね!!」と横の祖母に叫んでしまっていた☆
 すると祖母は目を覚まして「まだ数えよったんやね」といいながら笑みをうかべた。
 「寝るときは何も考えんで寝ならいかん、そうやろばあちゃん!」と私は、祖母に強く言った。
 「そうかもね。それじゃ、おやすみ。」と言って祖母はまた寝てしまった。私もそれから直に寝てしまっていた。
 祖母はあまり多くを語らない人であった。今思えばこの出来事も私への祖母からの教育であった、と思えるのである。
 それは、@信頼のおける人からの助言には素直に耳を傾け実行すること。A実行するにあたっては、なるべく助言を求めずに自身の創意工夫を施していくこと。B結果=最終決断は、自身の経験を重視し、それに基づくものとすること、といったものではなかろうか☆
 幼い子供の頃は誰でもそうであったに違いないこれらのことが時と共に失われていく近頃の世情のような気がしてならない。
 そう、あまりにも多くの2次的情報とゲーム等によるシュミレーシュン=未体験をあたかも体験したかのごとくしてしまう思考システム化が妨げとなり、「直体験」という本来最も大切なものが阻害されているのではないか!?、と私は考える。
 今思えば、テレビもあまり見せてもらえず、ゲームも殆ど買ってもらえなかったが、そのおかげで別の多くの体験=「直体験」をできたのだと思っている。目を閉じるとまぶたの奥に今日も祖母が微笑んでいる♪
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第35話((受け継がれて))

2010/05/13 00:35
 京都の夏は暑い!、と祖父から聞かされていた私は、夏休みが始まると同時に帰省した。19の夏のことである。
 実家に戻った時、わずかな間しか留守にしていなかったはずなのに、妙に懐かしく思えた。このことは、誰しも同じような経験があるのではないだろうか。
 帰省したその日の夜は、祖父母に京都での学生生活についていろいろ話をした。祖父も学生時代は京都で過ごしていたので、「○○の所は今はどうなっている!?」といった祖父の質問に答えたりした。
 その翌日だったと思う。2階にいる私の所に祖母がうんと冷えたスイカを持ってきてくれた。小さかった頃、祖母と買い物に行くと夏場はよくスイカを持たされたものだ。ポンポンとスイカを軽く手でたたいて、買うスイカを祖母は決めていた。
 祖母は私と一緒にスイカを食べながら高校の卒業式に教えてくれた亡き父母のことを話してくれた。あまり詳しいことは聞かずじまいで京都に行ってしまっていた私を気遣って祖母はきっと話をしているに違いない、と思いながら、私は祖母の話を黙って聞いていた。
 父は、俗にいうところの優等生だったらしい。高校の時の通知表を祖母が見せてくれたのであるが、その優等生ぶりが表記されていた。祖母曰く、私は父ではなく祖父に性格が似ているらしい。えっ、そんなことはないやろ!!、と当時は思っていた。
 が、時が経つにつれて、祖母の言ったことは、正しかったのかもな、と思えるようになった。隔世遺伝ということなのだろう(笑)
 通知表には、試験の席次が書かれてあった。1回だけ2番で、残りは1番だった。私がそこを見ているのを察してか、祖母は、「酷い風邪を引いたことがあって、病院で注射をしてもらって試験を受けたことがあってねぇ。その時2番になってしまったんよね。」、と言った。
 「ふ〜ん、そうやったんやね。」と私は祖母に言いながら心の中で、「自分やったら学校休んどるね。父はさすが優等生やね。」とつぶやいていた。
 その後祖母は、「○さんは、その点元気やけいいよね。おかげでずっと1番になれたし。」と言って微笑んだ。
 確かに私は1番だったかもしれないが、それは亡き父と母の恩恵が多分にあるからだろうから、父よりよかった、と単純に喜べなかった。
 文章を書いていて思うのは、文学好きのK大文学部卒の亡き母のありがたさであり、交渉事を取りまとめて思うのは、物静かなK大法学部卒の亡き父のありがたさである。
 そう、顔も見たことのない亡き父と母に私はいつも何某らの形で助けられているのである☆ありがたいことである♪
 威厳のあった祖父、そして祖父のまなざしを真摯に受け止め同期トップの最年少で某銀行の支店長になったエリートの父。この二人の「意志を継ぐ者」として私は、『元気なサポーター』になれたら、と思っている。
 『元気なサポーター』とは、自身と関わりのある方に少しでも役立つよう努め、喜んでもらえる人になる、というものである。 
 「意志を継ぐ者」という言葉は、亡き祖父が私を認めてくれた時に言ってくれた、私には忘れることのできない言葉である。
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第34話((食))

2010/05/13 00:34
 祖父母との三人の食卓、それはいつもいたってシンプルなものであった。
 食事の前には、祖父の話が必ずあって、その話が終わらないとご飯を食べることができなかった。
 今思えば、その後大きくなった私が社会で生きていく上でためになる話をしていてくれていたのであるが、当時の私にとっては、早く終わらないかなぁ、といったしろものの話であった。
 ご飯のおかずは、祖父母が一品で、私はそれにもう一品の二品がおきまりだった。
 いつだったか覚えていないが、祖母に「どうして僕だけおかずがもう一つあるん!?」、と尋ねたことがあった。
 すると祖母は、「○さんは、これから大きくならないかんけ一つ多いと。おじいさんと私はもう大きくならんけ一つでいいと。」、と答えてくれた。
 私は、そうなのか、と納得した。そして、自分もやがて大きくなったらそうしていくんだろうな、と思った。
 両親のいる家庭ではこのような食事環境ではおそらくないのかもしれないが、私にとってはこの環境であったが故に今の自分を構築することができたと思う。
 なぜなら、もし私が他の人と同じような環境であったならば、この歳で今のような生活を送れるようになっていたとは、とうてい思えないからである。
 「粗食」という言葉をあえて使わせてもらえば、私にとっては、「粗食」が普通であり、その生きるに値する食事を美味しいと思えて食べられるように育ててくれた祖父母に感謝している。
 外食など殆どなかったけれど、毎日祖父母の顔を見ながら食事をすることで、私は心の安らぎを得ていたのだと思う。それは、「心の栄養」をそこで十分にとることができていたからではないかと思うからである。
 そう、「心の栄養」はいくら摂りすぎても肥満になることはない、素晴らしいものであり、心は頭へと繋がり、多くの教養というおかずを次々にたいらげていくことを可能たらしめる基になっているに違いない。
 子供の頃から美味しいものをあまり知らず、大人になった後も食べることもなくやり過ごしてきた感はあるが、教養という中々消化しにくい食べ物は、他の人よりは多めに食してきたと思うのである。
 教養というおかずを消化して、「知恵」というエネルギーをこれからも使い、一人でも多くの人に役立てるよう努めていけたら幸いである。
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第33話((腕の中))

2010/05/13 00:33
 六歳になる年、幼稚園に通うことになった。1年保育だった。近所の子供は皆、その前年までに幼稚園に通っていた。
 が、私は、幼稚園に行きたくない、と祖父に頼んで、行かずに済ませていた。
 そんな中、祖母が「幼稚園に行ってもらえんかね!?」と時々、私に言っていた。
 そして祖母は、ついに「バスの定期を買ってしまったので、とりあえず、その間だけ幼稚園に行ってくれんね!?」と、私がいやとは言えない状況を作ってきたのであった。
 それで仕方なく、祖母の選んだ幼稚園に行くことにした。そこは、近所のみんなが行く幼稚園ではなかった。
 その幼稚園に初めて行き、園長先生との面接があった。園長先生が、「お名前は!?」と、私に聞いてきた。私は、??、と思った。そして、指をさしながらこう答えた。「そこに書いてあります。」と。
 すると園長先生は、「そうじゃないでしょ、ちゃんと答えなさい!!」と私に言った。祖母は私の直ぐ後ろに座っていたが、私には何も言わなかった。
 以来、園長先生とは、たった1年間という短い期間だったが、度々話をすることになったのである。おそらく、当時の全園児の中では最高回数であったに違いない。
 園長室に呼ばれて行った時、園長先生は、「聖書」の何某かのページを必ず私に朗読させた。私には意味はよく分からなかったが、園長先生の言いたいことは分かるような気がしていた。
 それは、「ここは共同の場だから、それに歩調を合わせて過ごして欲しい。あなたがみんなに合わせるしかないのだから。」、というものだったのではないかと。
 私はいつの間にか、園長室に呼ばれて園長先生と話をするのが楽しみになっていた。行きたくない、と思っていた幼稚園であったが、この「園長室呼び出し」のおかげで、まぁまぁ行けるようになっていたのである。
 6月になった。第3日曜日=父の日参観日で、幼稚園に行った。もちろん、私には、父は既にいなかった。大勢の園児は、自分の父親に手を振ったりしていた。私は、祖父母にこなくてもいいから、と、一人で幼稚園に行っていた。
 参観授業の中で、先生が目を閉じている園児の一人に目隠しをして、手拍子をする父親の所に行く、というものがあった。
 何番目だったろう。私が目隠しをされたのである。私はとっさに先生に小さい声で、「僕の家は誰も来ていません。」と言った。
 それを聞いても先生は私の背中を押した。私は手拍子のする方へ歩かざる得なくなってしまった。
 手拍子のする方へ行くと、がばっと私は抱きかかえられたのである。急いで目隠しを取ってみると、見たことのないおじさんが私の頭を撫でてくれていた。
 後に分かったことであるが、そのおじさんは、園長先生のご主人(園のオーナー)だったのである。
 園長先生は、私の家庭環境と、私が祖父母にこなくてもいい、と言って、当日誰もこないことを知り、私の父親代わりになってくれるように、ご主人に頼んでくれていたのであった。
 さらに、園のオーナーと祖父は、実は知り合いだったのである。このことは、だいぶ時間がたってから知ることになったのであるが、そのことに関わるエピソードは、またの機会にしたい。
 「父の日」の思い出は私にはないけれども、父もかつて通った幼稚園で、その父を指導していた園のオーナーの『腕の中』に抱かれることで、私は、間接的に亡き父に触れることができたような気がした。
 園長先生、素敵な「父の日」をどうもありがとうございました♪
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第32話((ゆっくり))

2009/05/13 00:32
 ここ何年間かで、街中に出ることがめっきり少なくなった。たまに街に行かなければならない用件があって、出かけてみると、人の多さもさることながら、そそくさと歩く人々の動きに圧倒されてしまう。
 車での生活が主流となったことに加え、加齢も伴い、てきぱき歩くと足が疲れてしまう。走るなどもっての他である(笑)
 昔は自分もあんなふうに歩いていたんだな、と街中を歩く人たちを見て思ったことがある。若い頃は、信号がずっと青だったら、すいすい歩けて便利なのに、とよく思っていた。
 ところが今はどうかというと、適度に信号が赤になってくれるおかげで足を休めることができる、と反対のことを考えるようになった。不思議なものだ。
 不思議と言えば、子供時分、まさか今のような生活を送れるようになるとは、夢にも思っていなかった。昨年から下が自宅で、上が事務所という自分にとっては、理想の生活環境で過ごせている。ありがたい限りだ(^_^)v
 振り返ってみると、私の前には、いくつもの信号が赤で立ちはだかっていたような気がする。その時々の信号に対して、あせらずにマイペースで青になるまで待って、横断していけたことで、大きな失敗もなく無事に過ごせているのではないか、と思うのである。
 赤で一休み、青で無理のない横断、そしてまた次の赤信号で一休み、と、端からみて、もっと素早く行動すればいいのに、と言われた時でも自身のペースを信じてのんびり・「ゆっくり」と、されど確実に歩めたのは、何よりのことである。
 私は今、私を支えてくれる人のお陰で、これまでにも増して、「ゆっくり」と人生を歩んでいけるようになった。幸せ者である♪
 これからの21世紀を生きていく若者達に是非言いたい☆「はやる気持ちを押さえて、ゆっくり、ゆっくりと歩んでいけば、道は必ず開かれ、その向こうに幸多き人生が待っている!!」と。
<対応年代:40代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
 
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第31話((うさぎ))

2009/05/13 00:31
 中2の夏休み、ある本にめぐりあった。うさぎの物語だった。
 その本は、祖父が買ってきた上映予定のアニメ映画の原作になっているもので、英語で書かれていた。
 当時、英語なるものは学校の授業以外ふれることはなかったので、英語の読解力は極めて低い状態だった。
 祖父は、「これ面白いぞ。」、と言ってその本を私にくれた。
 さて、読まない訳にもいかないし、と思いつつも、英語だけの本、気が重い★
 でも、うさぎは小学校の頃よく見ていたので、うさぎのことをもっと知ろう!、という気持ちで読んでみよう、と思い、その本を読み始めた。
 辞書を引き引き、本当に少しずつしか読み進むことができない状態だった。
 が、そこは、結構気長な性格だったので、マイペースで1ページ、また1ページ、と読んでいった。
 英語は、祖父から中学校に行く前に直接教えてもらった経緯があり、それがこの本を読むにあたって大いに役立っていた。
 「ふん、なるほどな。結構英語の本読むの楽しいじゃん♪」、と本を読むにつれて思い始めていた。
 読んでいてよく分からない箇所は、祖父に尋ねて教えてもらった。
 夏休み一杯かかって何とかうさぎの物語を読み終えた。心の中は何ともいえない充実感で満たされていた(^_^)v
 本を読み終えたことを祖父に告げた。すると祖父は、「ほう、やっと終わったか。褒美をやろう。」、と言って、映画の券をくれた。
 それは、読み終えたうさぎの物語のアニメ映画の券だった。
 祖母に言って、早速街に映画を観に行った。一人でぷらっと出かけて、映画館の下の階で好物のお好み焼きを食べ、映画を観て家に帰った。
 私は小遣いというものをもらっていなかったので、お好み焼きは、祖母がくれたお金で食べることができた。嬉しい限りだ。
 今にして思えば、この出来事は、当時英語に見向きもしなくなっていた私に祖父がしかけた作戦だったのではないかと。
 なぜなら、うさぎの物語など祖父が読みたい、と思うことは決してないからだ。
 学校の授業や受験勉強ではなく、遠回りになるかもしれないが、「英語を読む」力を確実に身につけることのできる方法を教えてくれた亡き祖父に「どうもでした。」、と言いたい☆
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第30話((勘))

2009/05/13 00:30
 人には大なり小なり勘というものがはたらくときがあるのではないだろうか!?私は子供の頃からこの勘というものを大切にして生きてきたような気がする。
 大学に入学した年のGWに早速帰省した。中3になる知人(男子)が近所にいたのだが、その子のお父さんから「ちょっと勉強みてくれんね。」と頼まれたので快く引き受けた。
 午後からじっくり夜までがんばろう!!ということで勉強をみていた。その子のお姉さんが、「お世話かけるね、今日はこれで夕飯食べといて。」と言って2,000円をくれて出かけてしまった。
 これで家はその子以外みんな外出してしまった。二人の間で夕食は美味しいお好み焼きを食べることで決まり!となった。
 それから二時間位勉強をみていたとき、その子の家の電話が鳴った。用件は、私が帰省したのでその子も一緒にみんなで食べ放題の焼き肉を食べに行こう♪、というものであった。
 私とその子はお好み焼きが大好物だったので、行きつけのお店で今日は何入りのものを注文するかワイワイ言いながら決めていたので、お互いに行きたくないねぇということになった。
 断りの電話を私がかけたのだが、電話をかけてきた近所のおじさんは、「お好み焼きやったら明日食べればいいやん。とにかく○さんがこんと話にならんけ、はよおいで。」と言われた。
 この近所のおじさんは、「第27話((最後の挑戦))でホームラン賞をくれたおじさん」である。
 何か行きたくない気持ちが心の中に渦巻いていたが、あのおじさんから言われたら行くしかないか、と観念してその子にも納得してもらい本日の勉強を終了して二人で焼き肉屋に向かった。
 焼き肉屋に行くとみんなが待っていた。全員そろったということで例のおじさんが、「さぁ、腹一杯食べようや!」と言ったのを皮切りにどどっと食べ始めた。
 久しぶりに賑やかな雰囲気の中での楽しい食事となった。お腹の方も同様に久しぶりに一杯になった。
 夕食会も無事終わり帰ることになった。みんなと一緒に話をしながらゆっくり歩いて帰っていた。
 その帰り道の途中で例のおじさんが、「向こうに見えてるコンビニまで一番で行った人に好きなアイスをおごるぞ!」と言った。
 それを聞いた途端、みんないっせいにそのコンビニめがけてかけだしていた☆私も負けてはなるものかと、コンビニめがけてひたすら走った。
 そしてもうじきコンビニというところでついにトップになった。「やった!!」と心の中でさけんで一目さんに走りこもうとした時、ドサッという音と共に私は下に沈んだ。
 なんと手前に大きな溝があってそこに落ちてしまったのだ★うまく着地したと思った瞬間、ズリッとすべってあごの上を石にぶつけてしまった。
 溝から上がってきた私に「下唇が切れてる!?」と誰かが言うのが聞こえた。気が動転していたので分からなかったが、下唇が切れて上の前歯が1本内側に曲がっていた。
 しびれていたのか意外と痛みは感じなかった。救急車を呼んでもらって病院に行き下唇の縫合をまずしてもらい、その後前歯をみてもらった。
 前歯は、自分の指で少しずつ前に出していくように、との指示を受けた。自分でしないといけないのか、何かいやだなぁと思った。
 帰ってから麻酔が切れてくると痛みが出てきてよく眠れなかった。翌日も痛みは続いた。それでも早く前歯を戻さないといけなかったので、ちょっとずつ指で前歯を内側から押していった。
 一日がかりで何とか前歯を戻すことができた。やれやれと思った。その後、やっとゆっくり眠ることができた。
 私にとってはとんだGW帰省となってしまった。寝床で考えたのだが、自分の勘=直感に従っていればこの怪我に見舞われることはなかった、と。
 生まれてこの方、殆ど怪我をしたことのなかった私にとって今回の出来事は多いに反省すべきものであった。反省から得た結論は、今後は自分の勘=直感を大切にし、いやな気持ちが生じた時にはその行動を控えるようにする、というものであった。
 以来、私はこの考えに従って生きてきた。勘を頼りに運も味方してくれたのか、結構うまく生きてこれたような気がしている。もちろん怪我はしていない。
 残りの人生、「勘」がどこまではたらくか分からないが、日々の努力を忘れずに一人でも多くの人に私の「勘」が役立つようできたら本望である。これからの人生においては、人の役に立ってこその「勘」であると思うから。
 最後にこのエピソードで当時不思議に思えたことを綴って今回は終わりとしたい。
 下唇が切れて血だらけになっていた上着の左の胸ポケット辺りだけ何故かきれいなままだったのでちょっと不思議だった。胸ポケットには祖母が買ってもたせてくれた「お守り」が入っていたからそのおかげかな!?と思った。
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第29話((日課))

2009/05/13 00:29
 学生時代50キロ代だった体重が京都から戻ってから平均年1キロのペースで増えていた。
 暫くぶりに会う人から「○○さん、最近太りました!?」と必ず言われるようになり、こりゃいかん。どうにかしないと、と真剣に考えるようになった。
 そんな中とある家電量販店で「ロ○オ○ー○」なるものに出くわした。以前から名前くらいは知っていたので、これがそうか!と思った。
 お店で試してみて帰ってからネットでいろいろ調べた結果、よし、買おう!!ということになった。
 それからネットで調べに調べまくって一番安い購入先を見つけ注文した。
 何日か後に商品が配送されてきた。直ぐに開封して設置、稼動させた。いい感じだった♪
 1日わずか30分(1回15分)でいいとのことだったので、朝と夜にやることにしてとりあえず続けてみた。
 3ヶ月くらい過ぎたあたりで成果が少しでてきたように思えた。でも何か同じことを1日の中で2回するのはどうかなぁと思い始めていた。
 自分の中でこれともう一つ何かあればより成果がでるのではないか!?との思いでついに「W○i○i○」をやることに決めた。
 購入にあたってそこそこの金額がかかったので、「元を取らねば」との思いも加わって真面目に毎日必ずやるんだとの決意で取り組むことにした。
 まず@体測定をやり、次にAロ○オ○ー○をやる。(W○iのニュースを見ながらやる。)そしてB有酸素運動をやる。(Aパート・Bパート各15分程度に分けたものを1日ごとにやる。)このようにして1日30分の運動をするようにした。
 とにかく毎日やった。しかし成果は思うようにでてはこなかった。「太りぎみです。」の状態のままだった。
 やってもこのままなのかもな、と半ば諦めかけていたとある日(そうやり始めて半年近くたっていたと思うが)、ついに体重が「標準です。」になったのである。
 嬉しかった(^_^)v、「ロ○オ○ー○」の購入から考えると実に1年近くの月日がかかっていた。
 依頼順調に成果はでて「標準です。」の範囲の一番上から少しずつ真ん中付近に近づいているといった具合だ。
 以前イギリスの学者が書いたものだったと思うが、「努力できること、それ自体が才能の一つである。」というようなことが書いてあったのを覚えている。
 私にもし才能があるとしたら、この努力すること=こうと決めたらトコトンやり続けることなのかもしれない。
 きらめくような才能がなくても「コツコツ努力」できる継続性があれば人はいつかきっと開花の時を迎えることができるに違いない☆
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第28話((備え))

2009/05/13 00:28
 京都で学生時代、時はバブルの真っ最中であった。
 当時学生であれば国民年金の支払いは免除されていた。そんな中私は、「全○済」のいわゆる私的年金に大学院生のときに加入したのである。
 きっかけは「全○済」のこくみん共済に加入したことだった。今でこそ「全○済」も名が知られているが、当時は私の周りには殆ど知る人はいなかったようだ。
 自分の将来を考えてみたとき、勤め人=サラリーマンにはとてもなれそうにないと実感していたので、先々困らないために今のうちから将来に備えておく必要があると感じた私は、サラリーマンが退職後もらう厚生年金にみあうものを自分で準備すべく私的年金の積み立てを決断したのである。
 もちろん国民年金についてもこの年から支払いを始めた。当時の私には支払い金額は大きな負担だったが、頑張って何とかお金を工面していた。
 7.5口=年間75万円支給が当時入れる加入口数の最高だった。これの逓増型(毎年5%ずつ支給がアップしていくもの)に入っていた。支給年齢開始は65歳からにした。
 65歳までなら自分の働きで何とかなるだろうと思ったのと、55歳、60歳、65歳の支給開始の中で、一番遅い方が1年間の払い込み金額が一番安かったので、7.5口の65歳支給開始で納得していた。
 それから福岡に戻り9口まで加入可能となったので+1.5口加算して9口=年間90万円支給(逓増型年5%アップ)にした。
 そして30歳前ギリギリで終身生命保険に加入した。これも30歳になったら保険料が上がるからと思い切って加入したのである。
 私はいつの間にか「全○済」のお得意様になっていた。(車や火災の保険も全てここで加入していたからだ。)
 世の中が外資系がいいとかいう雰囲気になっても私は国内の共済がいいと考え「全○済」一本で個人的なもの(法人的なものはここでは加入できません。)は契約してきた。
 今はそれで良かったと思っている。流行に押し流されることなく自分できちんと考えていくことの大切さを教えてくれた亡き祖父母に改めて感謝している。
 あれから20年、今ではそれ程たいした支払い金額ではなくなった私的年金。もし今から9口加入するとしたら、おそらく9口加入しない=できないだろう。
 2009年、これからの20年を見据えて終身の医療と介護保険に新たに加入した。(医療はこれまで定期だった。)
 「備えあれば憂いなし。」この言葉の意味を次の世代にしっかりと伝えていきたい!!
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第27話((最後の挑戦))

2008/05/13 00:27
 中学3年生の3学期早々に受けた公開模試=実力テストは5教科200点満点中197点であった。高校受験の学区ではトップ(最高偏差値75)、自己最高得点でもあった。
 しかし私は満点を取ることはできなかった。残る試験は期末テストしかなかった。
 私はこの中学最後のテストでオール満点を取ることにチャレンジしてみようと思った。他のみんなは内申書に関係ないこのテストのことよりも高校受験の勉強に熱心であったのだが、私はそんなことにはお構いなしに期末テストの勉強をしていった。
 主要5教科(英・数・国・理・社)は私にはたいしたことはなかったので副教科(音・美・技・体)の四つをじっくり丁寧に押さえていった。
 さて試験の結果であるが、順調に満点の答案を返してもらっていった。そして残すところ音楽のみになった。
 その当時音楽は近所の先生が教えていた。ある日、学校から帰宅して暫くしてその音楽の先生から電話がかかってきた。
 先生は、「○○くん残念だけど99点だったから。」と言われた。
 私はそれを聞いてやっぱりそうかと思った。曲目を書く問題で漢字をど忘れしてひらがなで書いていたからだ。
 世の中そんなに甘い物ではないと痛感した。祖父母にそのことを話すと、祖父は私に「高校までオール満点は持ち越しになった訳だ。でもあと1点足りなかったとは△△らしいな(笑)。」と言った。
 ということで高校生になってテストを受けていったがオール満点はもはや無理っぽい感じであった。
 そんな私に祖父はチャンスを与えてくれた。高校3年生の秋、当時○文○の最終マーク模試が本番前の仕上げ模試として有名であった。普段は「模試はお金がかかるからなるべく受験するな。」と言っていた祖父が、「受けてみろ!?」と勧めてくれたのだ。
 私はありがたく思いがんばって受験した。もしオール満点がとれれば今まで一度もなれなかった文系・理系合わせてのトップにもなれると思った☆
 結果はオール満点の1,000点、全国1位になることができた。嬉しかった♪
 祖父母もすごく喜んでくれた。近所のおじさんがホームラン賞といって2,000円をくれた(^_^)v
 こうして私の挑戦は終わった。自分の目標を諦めることは簡単にできる。でもちょっと遠くに目標を置き換えて「地道な努力」をやり続けることができれば、自身の立てた目標をきっと突破できる日がくるはずだ。
 そして自分を信じて支え応援してくれる人が必ずやそのチャンスを与えてくれるに違いない。
 「努力する」ということは、きっと何にもまして素晴らしい才能ではないかと!!
<対応年代:10代>  【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
 

 
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第26話((できた))

2008/05/13 00:26
 いくつの時か正確には覚えていないが、幼少のある夏私は祖父に泳ぎを教わった。
 水にやっと顔をつけれるようになったばかりの私をあろうことか大人用のプールに放り投げたのである。
 びっくりするどころではなかった。足がつかないプールの中で私は必死に無我夢中に身体を動かした。もがく私に祖父は何か大きな声で話しかけながら私の身体を支えてくれた。
 祖父は片手で私の腹のあたりを支えてくれたのであった。するとどうであろうか!?私は何となくではあるがプールの水に浮いたような感じがしてきた。
 「力を抜いて手足を伸ばしたら自然と浮くから慌てるな!!」と祖父が耳元でささやいた。
 私は祖父の言われた通りにした。祖父は手を離したがどうだろう、私は沈まなかった。浮けたのである。投げ飛ばされたときはどうなるかと思ったが、浮けた喜びがあっという間にそれを打ち消してしまっていた。
 その夏を契機に祖父は段階を追って泳ぎを教えてくれた。が、祖父は丁寧に教えてはくれなかった。見本の泳ぎ方をしてくれて、「・・・・のようにな。」と言ったあとは自分で考えてやるしかなかった。
 子供ながらにいろいろ考え工夫しながら泳ぎの練習をした。夏休みの午後はだいたいプールに行っていたような気がする。ちょっとした山間にプールはあったので、そこまで歩くのに汗をかいていたのでプールに入るのが気持ちよかった。
 泳ぎを覚えたのと時期は異なるが、自転車に乗れるようになる練習もした。
 家には自転車がなかったので、祖父が近所からボロの自転車を借りてきてくれた。その時も祖父は、「自分で考えてやってみろ。」と言っただけであとは何もしてくれなかった。
 私はまた自分であれこれ考えながら練習していった。朝早起きして少しずつ乗れるように練習した。まず@真っすぐ進めるようになること、次にAカーブで曲がれるようになること、そして最後にBスムーズに乗れるようになること、の目標を決めて取り組んだ。
 カーブが曲がれるようになったときのことは今でも覚えている。心の中で「やった〜!!」と言っていた。
 その後自転車で風をきって走るときの心地よさは何とも言えないものになった。買ってもらった自転車でいろんなところに出かけて行った。遠出したときは戻ってから自転車をメンテ・きれいにするのももう一つの楽しみになった。
 今思うに祖父の私に自分で考えて物事を推し進めていかせたことは、結果として私にはすごくよかったことであった。
 なぜなら学生時分に物理をやっていたときでも福岡に戻ってから仕事をやっていく上でも有意義にこの思考が活用でき、こうして今人のために役立つことができているからである。
 ふとまわりを見渡すとあまりにも何かをするにあたっての「How to」=マニュアルが横行してしまってるのではないだろうか!?、と思わざるを得ない。
 これではこれから不測の自体が生じやすくなっている世の中を乗り切っていくことが難しい人々が増えていき、しいては社会全体に何らかの支障をきたすことになるに違いない。
 だからせめて私は私につき従ってくれる方々並びに将来を担う子供達にこの「自ら考え工夫する。」ということの大切さを伝え、実践=((できた))ということを実感してもらいたいのである☆
 今また一つ亡き祖父のありがたみ(偉大さ)を感じた♪
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第25話((つまずく))

2008/05/13 00:25
 小学校の間、算数というものを習った。結構面白かった。今回はこの算数がらみの内容で。
 小6になって暫くしてクラスの中で算数のテストがずっと100点満点なのが○○くんと私の二人であることが分かった。
 ○○くんはいわゆる秀才タイプで町の大きな塾にも通っていた。それに比べ私は運良くテストの点数を稼ぐラッキーマンだったように思える。
 そんな対照的な二人だったが、仲はよくて一緒に遊ぶことも多かった。
 彼の家に遊びに行くとお母さんがおいしいお菓子を食べさせてくれた。優しそうな彼のお母さんをみると、生きていたら自分にもこんなお母さんがいたのかなぁとか思ったりした。
 さて、算数テストであるが、二人とも順調に満点をとり続けていた。
 2学期も終わりそうになったころ私は風邪気味で熱っぽかった日があった。丁度その日、算数のテスト、確か場合の数(確率)に関するものを受けるはめになった。ちょっと頭がぼ〜っとしていたせいもあっていつものようには解けなかった。
 結果、私はついに満点を取ることができなかった。○○くんに負けてしまったのである。
 私は潔く負けを認めて「○○くん、おめでと。」と彼に言った。○○くんは嬉しそうであった。「ありがと、残りもがんばるよ。」と彼はこたえた。
 家に帰って夕食のときにこのことを祖父母に話した。すると祖父は「負けることもときには必要だぞ。そこから学ぶこともたくさんあるからな。」と言った。祖母は「またがんばればいいよ。」と言ってくれた。
 その後最後のテストまで○○くんはがんばり通した。及ばずながら私もなんとか(^_^)v
 ○○くんとは別々の中学に行くことになって、会う機会がだんだんなくなっていった。クラブ活動が忙しかったせいもあるが。
 月日が流れて私は中2になっていた。その年のとある日、○○くんは自らの命を絶ってしまったのである。
 新聞にも記事が載っていた。記事には、成績が1番から下がっての自殺ではないだろうか、などと書かれていた。
 なんで!?と私は思った。あいつがそんなことで死ぬなんて考えられなかったからである。
 祖父も新聞の記事を読んでいたようだった。「○○くんはおまえと違ってどこか線が細いように思えていたが、不幸なことになってしまったな。」と私に祖父は言った。
 その言葉を聞いたとき私は彼の何をみていたのだろうと思った。そして「○○くんごめん。」とつぶやいていた。
 それからちょっとして小5・6年のときの担任の先生に会うことになった。先生は「○○くんは勉強を一生懸命って感じでやっていたような気がする。それに対してきみはなぜだかわからないけどゆったり構えてやっていたよね☆」と言われた。
 「そうですかね。」と私がこたえると、先生は「内緒にしてたんだけど○○くんは鹿児島の□・□ー□を受けてダメだったんだよね。だから中学ではずっと1番でいたかったのかもしれないね。」と言われた。
 私はだまっていた。するとさらに先生は「これも内緒だったけど実はおじいさんにきみなら受かるって話にいったことがあるんだよ!!」と言われた。
 それを聞いて、そういえば祖父が冗談っぽく「鹿児島で病院をやってる兄の所に住んでみらんか!?」と言っていたことを思い出した。私は「なんでわざわざ灰が降るとこに住まないかんの!?」と言い返していた。
 いろいろ先生と話をした最後に先生は「○○くんの分も一緒にがんばってくれよ。きみならそれができる。」と言われた。
 私は先生の言葉をありがたく思った。そして○○くんがずっと守りたかった1番を守り抜く決意をした。
 そして運よくその後もずっと1番でいられた。加えて算数から数学になった教科のテストも無事に満点を取り続けることができたのである。
 祖父から言われた「負けから学ぶ」こととは、「心にゆとりを持てるようになる」ことだったのではないかと。そう、負けたら次は負けないようにがんばればいいだけだ!!
 勝ち続ける人生よりも負けることもある人生の方が私は好きである♪その方がより多くの人のために役立つ人生を送れるにちがいないから☆
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第24話((チャレンジ))

2008/05/13 00:24
 高1の秋だったと思う。ル−ビックキューブなるものが流行った。
 丁度高校の数学の内容を終えた私は、ひとまずほっとした気持ちになっていた。そんなある日、高校になってから知り合いになった隣のクラスの男子生徒がルービックキューブをもってきた。
 その日からみんな彼からちょっと借りてはやっていた。が、そんなことではとうていできっこないと私は思っていた。
 私は、今これをやるのが自分の新たな目標(高校数学を一通りやるというのがこれまでの目標であった。)だと思い、ルービックキューブを1日でいいから貸して欲しいと○○くんに何度も頼んでやっと貸してもらった。
 家に帰って祖父母に「今日から明日にかけてはこれをしないといけないので、精神統一も兼ねて玄関でやるから。」と言って、ルービックキューブを見せた。
 祖父は「サイコロみたいなものに負けんようにな!!」と言ってくれた。祖母からは「玄関で風邪引かないようにしいや。」と言われた。
 ご飯を食べてお風呂に入ってから、「さぁやるぞ!!」と心の中でつぶやいて気合いを入れてやり始めた。
 が、これがなかなかうまくいかないのであった。いいところまでいってもダメ〜という具合になってそのたびに気分転換をしていたのでとうとう徹夜するはめになった。
 明け方近くになってピピ〜ンとひらめいた☆「はは〜ん、こうすればいいのか。」などとひとりごとをいいながらシャカシャカやっていった。
 そして六面全てがそろったときには完全に夜は明けていた。祖父母に「さっきついにできた。今日これ返しに行くまで寝るけ。」と言って熟睡してしまった。
 はっと目が覚めたらお昼をとうに過ぎていた。バタバタ準備をして学校に行った、ルービックキューブだけを持って。
 急いで行ったつもりだったが、着いたときには終礼間近だった。
 私は「できた、ルービックキューブ♪」と言いながら教室に入った。
 するとみんなの視線を浴びるより早く担任が「廊下に出ろ。」と言った。
 やばいと思ったが、なるようにしかならんとあきらめて担任の前に立った、ルービックキューブを後ろに隠しながら。
 「今日は何をしていた、学校休んで!?」と担任から尋ねられたので、私は「ルービックキューブを徹夜でしていたので寝ていました。目が覚めて急いで来たのですが今になってしまいました。」と答えた。
 そして後ろに隠していたルービックキューブを担任に見せた。すると担任は「すごい。」と言って、私の手を引っ張って校長室に連れて行った。
 校長先生に担任は「うちの生徒の△△が徹夜でルービックキューブを仕上げてきました。」と嬉しそうに言った。
 すると校長先生は「おめでとう△△くん、日本で2,000人以内ですよ、今は。」と言われた。
 なんか嬉しかった♪高校数学をやりあげた以上の満足感であった。
 さて、学校はといえば、次の日から誰もが私のやり方で簡単にルービックキューブをやっていた。
 今思えば私は周りの人たちに恵まれていたのだろう。祖父母に先生方にといった具合に私のやることになんのおとがめもなくすましてくれていたのだから。
 小さなチャレンジ、それをみつけ実行できるように今度は私が見守る番である。でてこい☆かつての私のようなやんちゃくんよ!(^^)!
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第23話((思いの深さ))

2008/05/13 00:23
 今回は、高校1年生のときにお父さんの転勤で転校してきたKくんとのことを綴ることにしたい。
 彼の方から最初話しかけてきた。神戸から引っ越してきた彼は、「この高校に入って勉強の進度が前いた高校よりも遅れているからかなわんわ。」と言った。
 私は学校の進度など気にしたことはなかったので、「そうですか。」とだけ答えた。祖父から勉強は自分でするものと常々言われていたので、私にとって学校は自分で勉強したことの復習=チェックをする場所になっていたのだ。
 彼は高校生とは思えない程物事に対して冷めた考え方をしていた。今考えるにそんな彼だったが故に銀行マンという職業をやれているのだろうと思う。
 そんな彼がどこでどう知り合ったか分からないが、第8話で書いた中学時代の私の友達が逮捕されたことをいち早く教えてくれたのである。
 私はそのことをきっかけにして彼と仲良くなっていった。
 高1の夏休み直前に全国模試=○研模試を受けた。私はひそかに彼のいう、この学校より進度が進んでいるという高校生よりもいい成績をとろうと思っていた。テストはクーラーのない高校の教室でじめじめして暑かったが、がんばった☆
 結果は全国で六十何番かだった。彼の言っていた高校の1番の生徒より成績は断然よかった。
 彼は、「おまえすごいねぇ、九州にもこんなやつがおったんやね!!」と言い、ちょっと驚いていたようだった。
 私は、とりあえずひそかな目標は突破できたのでまずまずと思ったが、「全国にはまだまだ成績のいいやつがいるからがんばらないと。」と彼に言った。
 月日は流れて2年生になったころ彼は私に「おまえが人に優しくするのは、相手が自分より劣っていると心のどこかに余裕があるからなんじゃないかと俺は思う。」と言った。
 何のことだかよく分からなかったので、「よく言ってる意味が分からんのやけど!?」と彼に言い返した。すると彼は、「数学の先生によく別解を聞かれて放課後教えてやりよるやろ。俺が思うにあれは先生のためになっとらんと思う。そのことたい。」と言った。
 それを聞いた私は少しが〜んとした。そっか、先生によかれと思ってしていたつもりだったが、裏を返せばそれは先生が別解を考えられないという気持ちが心のどこかにあったからではなかったかと。
 私は数学の問題を解くときに教科書等に書いてある解き方ではない、いわゆる別解を考えるのが好きだった。本当に書いてある解き方がベストなものであるか必ず考えていたのである。大学を出たばかりのその数学の先生は時々生徒から質問でやり込められたりしていたので、私は先生をそっと助けてあげられたらと思ってやっていた。
 優しさというものについて考えさせられてしまった。本当の優しさとは真に相手のためになるものでなくてはならないと思った。そしてその真の優しさをもつには、自分自身がもっと成長して物事を厳しい目でとらえられるようにならなければもてないものなのだろうと思った。
 Kくんはその後○稲○大学に現役合格したが、1年で中退、別の大学を再受験して合格、大学卒業後某銀行に就職、現在は本店にてがんばっている。
 物理学に邁進していた大学院生のとき彼に久しぶりにあった。彼は、「おまえ、物理とかやらんで商売した方がいいと思うよ。」といつもの冷めた言い方で私に言ってきた。
 何をまたいいよるかね、と思ったが、「学者には向いてないかね、自分は!?」と彼に言った。すると彼は、「いや、そういうことではなくて、商売やる方がよりいい、学者以上に向いてると思うんやけど。」とこたえた。
 当時、まさか本当に商売(ビジネス)をやることになろうなどとは夢にも思っていなかったので、「あっ、そうね(笑)。あんたが言うならそうかもね。」と軽く受け流していた。
 Kくんは人、というより物事の本質を見抜く力を持ち合わせている人間なのだろう。その眼力で私のこともきっと見抜いたに違いない。
 彼のいう通り私は今の仕事に確かに向いていた。ビジネスでは通り一辺倒のやり方=誰でもが考えることではうまく切り抜けられないことがある。そんな場合、別のやり方があるのではないかと考えなければならない。このことは、私がかつて数学の別解を考えていた思考によく似ているのである。
 つまり、彼はそんな私の思考回路をみているうちに、こいつは商売をしたらうまくいくに違いないと思うようになったのではないだろうか。
 Kくんを見習って、私と関わりのある若き後輩たちに適切なアドバイスをしてあげられるよう、「真の優しさ」をもって接していきたい(^_^)v
<対応年代:10代〜20代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
 
 
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第22話((ありがとう))

2008/05/13 00:22
 今や携帯電話は誰もが持ち、生活必需品のようになった感がある。今回は、携帯電話のPHSに関するものである。
 PHSが販売されるようになったとき、9月のサービス前の7月から予約を入れて申し込みをした。予約者の特典として下4ケタの番号を好きに選べた。
 当時、携帯電話を持つには毎月かかる料金が高いと考えていたので、ポケベルを利用していた。PHSは公衆電話を持ち歩くようなものだと理解したので、それならこのPHSを公衆電話と思って利用しようと考えた。
 PHSの販促は、○T○が大々的にやっていた。私がお世話になっていたお店でもそうであった。
 ふとしたきっかけでそのお店が販売代理店を募集していることを知った。私は、自分がPHSを利用してみて、便利であることを実感していたので、宣伝して売ってみたいと思ったのである。
 しかし、代理店には法人でなければなれないと担当者から言われた。
 私は考えた。それまでに携帯電話で何人かあのお店を紹介して契約させているからダメもとで直接店長にお願いしてみようと思い、即実行した。
 店長に深々と頭をさげ、殆ど土下座に近い状態でお願いした。
 「条件は、販売代金からの手数料はゼロ=全くもらわない、期間終了までにノルマとされる台数(400台)を全て契約・販売した場合のみ○T○からインセンティブ(報奨金)をもらう、というもっとも不利なものでいいですから、どうかお願いします。」と店長に嘆願した。
 店長は、「そこまでの覚悟があるなら代理店の許可がおりるようにしましょう。しっかりがんばって下さいね☆」とO.Kの返事をくれた。
 私は店長に感謝すると同時に、よ〜しがんばるぞ!!という気持ちで一杯になっていた。
 それからというもの期限が3ヶ月ちょっとしかないこともあって必死に販促に努めた。
 私の作戦はこうであった。九州地区直属の販売店ではPHSは予約販売のみである。が、私の契約先は関東地区直属であったので(某有名商事会社)、即PHSを納品できる有利さがあった。
 だからこの点をクローズアップしてPHSを利用したい方に直ぐに利用できることをきちんと説明していった。
 すると結構反応が出てきて順調に契約台数を増やすことができた。友人・知人の助けは大きな味方であった。
 がむしゃらにがんばったおかげで12月のクリスマス前までに残りいよいよあと1台になった。28日が締め切り日であった。
 しかし、もう私にはあてはなかった。どうしたらいいものか思い悩んでいるうちにとうとう28日の最終日になってしまった。
 夕方になって1本の電話が私のPHSに入った。かつての教え子で携帯電話のお世話をした○○くんからだった。
 「先生、俺の友達が携帯にするかPHSにするか悩んでたんだけど、PHSの欲しい機種がすぐ手にはいるんならPHSの契約してもいいってことになったんですけど。」と○○くんの声が受話器から聞こえた。
 「あっ、ほんと!?大丈夫、すぐPHS用意できるから。」と私はすかさず彼に返事をした。
 その後彼が友達を私の所に連れてきてくれて無事に契約書を書いてくれた。その契約書をFAXして全契約を無事に終えたのである。
 ○○くんとその友達に、「年末なのに本当にありがとうでした。助かりました。」と感謝の気持ちを込めてお礼を言って玄関先まで見送った。
 その後のことはあまり覚えていないが、ほっとしたなんともいえない安堵感につつまれていたことだけは覚えている。
 こうして私の挑戦は終わった。京都から戻っての初の大きな仕事であった。そしてこれを契機に個人から法人への道のりを歩んでいくことになったのである☆
 私一人の力ではおそらく半分も台数の契約をとれなかっただろう。しかし、多くの方々の力添えがあったので私は無事にノルマを達成することができたのだ。
 日々出会う人たちへの感謝=ありがとうの気持ちを忘れずにいれば、必ず自身によりよい道を歩ましてくれることになるのではないだろうか。
 人と人とのつながりをこれからも大切にして生きていきたい、この21世紀も!(^^)!
<対応年代:30代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
 
 
 
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第21話((くるま))

2008/05/13 00:21
 40代になって初めて外車に乗った。愛称「Vくん」である。
 それまで車には殆ど関心がなかったので、知人に紹介された車をずっと乗っていた。○ヨ○製の車だった。
 だから一からの車の勉強になった。ネットである方と知り合いになりいろんなことを学ばせてもらった。
 純正の車の内張がこの車両は貧弱で、それ故に防音・断熱効果が悪い状態であった。
 ネットで知り合いになった方は、内張の改良製品を作りだした人だった。
 早速その方から商品を送ってもらってVくんに装着してみた。
 結果、効果は申し分ないものであった。リアの冷房効果は純正より数段アップしたといっていい☆
 その後ボンネットの防音キットも取り付けたが、これもgoodであった♪
 国産車では考えられないようなアクシデントにも何回か見舞われたが、外車はきちんと乗り、いつも忘れずにメンテしてあげなければならないとVくんを通して学べたようだ。
 Vくんでは仕事のときに支障をきたすので、軽自動車も使用するようになった。それまで車は1台しか使っていなかったのだが、2台になった。愛称は、「アトレーくん」だった。
 この2台の車を私はいつの間にか兄弟車のように思うようになっていた。両方ともがトラブルになることが決してなかったので、2台で助け合って私の車使用が滞ることのないようしてくれているんだろうなぁ、きっと、と思えたからである。
 アトレーくんは故あってやがて関西の子会社のほうで使うことになってしまった。名残惜しかったがさよならをした。
 その後、関西に出向いたときにアトレーくんに再開できて嬉しかった。私が乗っていたころよりこき使われているようだったが(笑)。
 月日は流れアトレーくんは廃車せざるをえない状態になった。廃車の許可を求める関西からの連絡につらいが仕方ないと思い許可を出した。
 一つの時代が終わったのかもしれないと思った。お疲れ様、アトレーくんであった。
 そんな中、ここにいるVくんはというと、これまた殆ど使用していない状況であった。気付いてみると前回車検から1年以上もたっているのに僅か1,266kmしか走行していなかったのだ。
 Vくんに申し訳なく思った。車は使ってあげること=一緒に走ることが何よりも大切なのだろうが、それをやれていない私にはVくんとこれから先つきあっていく資格がないと思ってしまった。
 まだまだこのVくんは走ることができる。だからだれかこの自分のVくんに対する気持ちをわかってくれる人に引き継いでもらいたいとの思いにかられて、とあるオークションに出品したのである。
 気持ちは通じたようである。Vくんは元気に関東のとある方に引き取られたのであった。
 この広い世の中に自分と気持ちの通じる人がいたんだと思えたことは私の大いなる喜びであった。Vくんのおかげでその方と知り合うことができたのだから、Vくんに感謝である!!
 そしてインターネットの普及がなかったらと思うと、改めてネットの重要性を認識するとともにこれからの将来を担う子供たちに、@ネットがさまざまなシーンで活用できること、Aそれを通じて心と心のふれあいを実感できる場合があること、を知ってもらえるよう努めていきたい(^_^)v
<対応年代:40代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
 
 
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第20話((いきつけ))

2008/05/13 00:20
 私には行きつけの散髪屋さんがある。子供時分からそこにお世話になっていて毎月欠かさずそこで髪を切ってもらってきた。(大学から福岡に戻るまでは行けなかったが。)
 第6話で高校生のとき電気屋さんに就職したいと思っていたと書いたが、散髪屋さんもいいなぁと思っていたころがあった。中学生のころ丁度そんな気持ちになったことがあった。
 いつも行くその散髪屋さんのご主人を見ていて、通勤時間ゼロで雨に濡れることもないし、人は誰でも髪は伸びるから、こんな手に技術をもってできる仕事につけたらいいなぁと思うようになっていた。
 ご主人とは何となく馬が合って、いつもいろんな話をしてもらっていた。(子供時分の私はどちらかというと無口な方であった。)
 そんな訳で中学3年生の面談のとき、私は散髪屋さんになりたいと担任に話した。が、担任は、「高校に行った方がいいから、そうしなさい。」の一言であっさり否定されてしまった。
 手先は結構器用だったので、散髪屋さんはいいんじゃないかと思っていたのだが、担任の言うことを信じようと思った。中3のときの担任は私のことをよく分かってくれていた人であったから。
 散髪屋さんには息子が2人いた。上の人が丁度私と同い年だった。(学区が違ったので、同じ学校になったことはなかった。)
 京都から戻ってからは、散髪屋さんとの話の中によくその息子さんの話がでてくるようになった。就職、結婚、お孫さん誕生等、いろいろな出来事があったせいかもしれない。
 私も今の自分の近況を行く度に結構詳しく話すようになっていた。もっとも殆どが仕事の話ばかりだったが。
 やがて息子さんにも言えないお話=苦労されていることをお客さんの誰もいないときにされるようになった。
 できるだけ話をじっくり聞いて今の私の知りうる範囲でベストと思えるお答えをするよう心がけていった。
 散髪屋さんご夫婦にとって私は本音の言える一人なのであろうと思う。だとしたら月に1回、これからもずっとその本音を聞きに行こうと思う。
 片道65km以上の距離にある散髪屋さんであるが、身内のいない私にとってはありがたい知人である。
 いつも帰りに、「遠い所わざわざすみません。お気をつけてお帰り下さい。」と丁寧に見送ってくれるその姿に、「また来月にお会いしましょう。お元気で」と言ってお別れしているのである。
 気の優しい○○さんがあることで経済的に困窮し、にっちもさっちもいかなくなったときに助けてくれた人がなんと亡き祖父であった。
 祖父は私がえらく散髪屋さんを気に入っているのを知っていて、「その散髪屋さんがなくなるのは孫にとってよくないことだ。」と言って○○さん一家を救ってやったというのである。
 私はまだまだ未熟者であるとそのことを○○さんから聞かされたとき思い知った。そして祖父が残してくれたものを決して己のために使うのではなく、祖父の意志にかなうもののために使おうと強く思った。
 あと10年くらいかもしれないが、祖父が助けた○○さんの散髪屋さんにこれからも毎月「心のつながり」を届けたい☆
 人と人とのつながりが希薄になりがちなこの21世紀だからこそ大切にしたい、こんな「心のつながり」を。
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第19話((走る))

2008/05/13 00:19
 中学3年生になって私は生徒会の執行委員会のメンバーになっていた。1週間に一度、放課後に話し合いがあっていた。だからクラブ活動はその時は遅れていっていた。
 話し合いのある教室の廊下から運動場がよく見えた。人気の花形クラブの男子テニス部のコートも見えた。
 当時生徒会の会長と副会長は陸上部の男子部員だった。陸上部は人気がなく、3年生の男子部員はたったの3名だった。
 だからこの生徒会の話し合いのあるときは、残り1名が最初練習をしていた。
 その彼は運動場の周りを走っていた。いわゆる長距離走である。もくもくと走る彼の姿を話し合いのあるときにたまたま見かけて、以来毎回彼の姿を追うようになっていた。
 彼はあまりパっとしない男だった。会長と副会長に隠れて目立たない存在であった。小学校も同じだったが、一緒に遊んだこともあまりなかった。
 特に足が速いわけでもない彼であったが、ひたすらもくもくと走る彼の姿に、いつしか「○、がんばれ!!」と心の中でエールを送るようになっていた。
 毎日毎日ただひたすら運動場の周りを走り続けることなど自分にはできそうにもない、それを彼はやっているのだから、すごいなぁとつくづく思ってしまった。
 そんな彼が受験勉強に成果を出し始めた。実力テスト=対外模試でメキメキ成績がアップしていったのである。
 生徒会長と副会長の2人は成績上位者であったが、○はそんなに成績のいい方ではなかった。それが、中3になってその2人に追いつこうとしていた。
 最終的には○はその2人を抜き去り、学区トップの進学校に合格した。○は運動場をただ走っていたわけではなく、受験勉強というレースに備えてコツコツと地道に努力していたんだなぁ、偉いヤツだ、と思った。
 高校生になってから○に会う機会があった。○に「中3のときいつも走る姿見とったよ。もくもくとよう走りよったけ感心しとったっちゃ。」と言った。
 それを聞いた○は、「それを言うなら小6のとき昼休みを返上してマラソンの練習してた△△くんの姿を見た僕の方が先に感心してたよ。」と私に言った。
 ○から言われてそういえばそんなことをしたことがあったなぁと思い出した。クラスマッチ形式になっていたマラソン大会に向けて練習しようと思い、昼休みと放課後走ったことがあった。
 最初は一人きりだったが、徐々に一緒に走るクラスメイトが増えて、最終的にはほぼクラス全員で練習できた。
 ○はそのときの私の姿を見て、「言葉では伝わらないことを△△くんは態度=行動でクラスのみんなに伝えたんだ、だからみんなが練習に参加したんだ、きっと。」と心の中で強く思ったそうである。
 そして「自分も△△くんのようにがんばろう!!」と決意したというのであった。
 私は○から当時彼が思ったことを聞かされてちょっとビックリした。まさか自分の影響で○がもくもくと走っていたなんて思いもしなかったからである。
 ○と会った後、私の何が彼の心を動かしたのか考えてみた。その答えは、私がなぜ○の走りに共感したかということの中に伺い知ることができた。それは、無欲の走りを○から感じられたことにあった。
 人は誰でも欲がある。小6のあのとき最初私は自分がマラソンの練習をして速くなりたいという気持ちでいた。が、徐々にクラスのためにと思うようになったのである。
 己の欲を捨てて無欲な気持ちになってみなのためにと真に思えるようになったときに人々は心を動かされ自発的に従うようになってくれるのではないだろうか☆
 ○の走りの中に私は忘れかけていた無欲というものを再び思い出させてもらっていたような気がする。
 私を信じてついてきてくれる人たちのことを大切に思いながら○のように人生というトラックを無欲に走っていきたい♪
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第18話((路))

2008/05/13 00:18
 学生時代のぶらり一人旅の中から今回は綴ることにしたい。
 とある年の秋になりかけのころだったと思う。もう行った先は覚えていないが、関西のどこかに出かけた。
 山道のようなところを歩いていた。右手に川が流れていて、その川辺に降りることのできるところがあったので、休憩も兼ねて降りてみることにした。
 川辺に降りると大きな岩が横たわっていた。その岩を見て、「あらっ。」と思った。岩に字が掘ってあったからだ。
 なんと与謝野晶子の詩が刻まれていたのだ。見渡すとその周りにさらにいくつかの岩があって、同じように詩が刻まれていた。
 私は文学には無縁であったので、その詩の内容を深く読み取ることはできなかったが、感動した♪
 そんな気持ちで上の道に戻ってさらに奥に進んでいくと、なにやら古い家のようなところに出た。
 そこのお爺さんが、「お兄さん、よかったらちょっと休憩していかんかね!?」と話しかけてきた。
 私は、「はぁ、どうも。ではお言葉に甘えて、そうさせてもらいます。」と答えて、その家の中に入った。
 家といっても玄関先が駄菓子屋のようになっている作りであった。そこにいろんなものがゴチャゴチャ置いてあった。
 お茶を飲ませてもらって、一息ついたころ、そのお爺さんが私に、「これ何と思いますか!?」と尋ねてきた。
 見ると[ロウソクたて]のように思えたので、「灯り用に利用していたものでしょうか。」と答えた。
 するとそのお爺さんは、「そやな、これは自転車のライト用に使っていたもんでな、風が吹いてロウソクにあたっても消えんようになっとるんやで。」と言った。
 それを聞いた私は、「へぇ、そうなんですか。すごいですね。」と言いながら、改めてそのものを眺めた。
 お爺さんはさらに、「これはな、実は、かの有名な松下幸之助はんの作ったもんなんやで。」と言った。
 二叉ソケットの開発の話は子供のときに聞いたことがあったが、こんなものを作っていたとは知らなかった。
 ナショナルは私の好きなメーカーであった。その創始者である松下幸之助は偉大な人であると思っていた。
 その「家」をあとに私は帰路についた。今回のぶらり旅は私に新たな思いを起こしてくれるものとなった。
 それは、日常のなにげない小さなこと=不便さに目を向け創意工夫を施すことの中に大きな飛躍につながる何かがきっと潜んでいるに違いないということである。
 だが、恵まれた今の環境の中でできる創意工夫とは一体何なのか!?私は、帰りの電車の中でずっと考えていた。頭の中でグルグルといろんなことを考えているうちにいつの間にか京都駅に電車は着いていた。
 家に帰ってからも考えた。そしておぼろげながらある考えに布団の中で至った。自分が今関心のあることに対して常に意識を持ち続けることができればそこから何かを見いだせるのではないか。そしてその積み重ねがあった後に創意工夫というものがきっと生まれてくると。
 後日、松下幸之助の著作を読んでその考えが間違いではなかったと思った。たとえ一流の人間にはなれなくても、一流の人間を目指すことは誰にでもできるのだと☆
<対応年代:20代> 【コメント投稿】→((メッセージBOX)) 
 

 
 
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第17話((幸せ))

2008/05/13 00:17
 京都にいたとき、Uちゃん(男)と知り合いになった。彼とはとある塾で出会った。
 塾の仕事で一緒になったときは帰る方向が一緒ということもあって、帰る道々よく話をするようになった。
 彼は当時医学部(国立大学)の学生であった。話を聞いて、医学部での勉強は大変だなぁと思った。
 だんだん彼と親しくなった私は、時々食事をしたりしていた。
 月日は流れて、彼が5回生になろうとしていた春のことである。私は久しぶりに昼間家にいたのだが、そのUちゃんから電話がかかってきた。
 「○○さん、今日お時間あります!?」と聞かれたので、「今日は暇やけど。」と答えた。
 「そんなら会って相談したいことがあるんですけど、会ってもらえますやろか!?」と言ってきた。それで私は、「なんかあったんかね!?まぁ、会ってからゆっくり聞こか。」と言って、JR京都駅で待ち合わせることにした。
 Uちゃんは、新大阪に住んでいた。私は伏見に住んでいたので、京都駅で待ち合わせするのが丁度よかったからだ。
 駅でUちゃんを見つけて一緒に地下街に入った。食事をしようと思ってである。おそば屋さんに入ったと思う。注文をすませて、Uちゃんの話を聞き始めた。
 話の内容は次の通りであった。
 付き合ってる彼女との間に子供ができてしまって、これから先どうしたらいいのか迷ってしまった。それで家族や周りの者に相談したら、せっかくここまで医学部に通ったのだから、がんばってあと2年何とか大学にいくことを全員からすすめられた。というものであった。
 いろいろ話を聞いているうちに、「実は○○さんやけ言うんですけど、5回生になると実習ばっかりになる中、血見るのが怖いんですよ。」とぽつりとつぶやいた。
 私は、ははぁ〜んと思った。こいつ大学辞めたいんちゃうやろかと思った。
 「Uちゃん、大学辞めたらいいんちゃうの!?」と私は彼にストレートに言った。「彼女が妊娠してなくてもそうしたかったんやない!?」とその後に付け加えて言った。
 それを聞いたUちゃんは、目をパッと見開いて、「うわっ、きっついこと言いはりますね。でもそれ本心ですわ。」と言った。
 みんなから大学辞めたらいかんと言われる中、彼はきっと私からその反対のことを言ってもらいたかったに違いない。なぜなら、私がそんな性格の男だとUちゃんも分かっていたからだ。
 私は、「他学部で考えたら、丁度大学卒業する年やけいいやん。就職先のことは俺が何とかしてやるけ。」とUちゃんを励まして言った。
 「ありがとうございます。」とUちゃんは深々と頭を下げた。「さぁ、食べよや。」と私は言って注文していたそばを食べ始めた。
 それからちょっとして私はトイレに行った。戻ってきたとき、ハッと思った。なんと、Uちゃんの後ろ頭の上の方に大きな10円はげが二つあったのだ。
 「Uちゃんどうしたん!!その頭!?」と思わず大きな声を出してしまった。その声は店の中にいたお客さん全員の視線をあびる程のものであった。
 Uちゃんは恥ずかしそうに、「この件のストレスでこないなってしまいました。朝起きて髪の毛といたら、ブラシに髪の毛がめっちゃついてたんです。」と答えた。
 食事をすませると私はUちゃんを[ア○ラ○ス]に急遽連れて行った。彼の髪を一日でも早く取り戻したかったからだ。
 家に戻ってからは、友人・知人に電話をして彼の就職のお願いをしまくった。Uちゃんにまかしときとは言ったもののあてはそう簡単にはあろうはずはなかったからだ。
 某公務員のお偉さんの父親をもつUちゃんにとって大学を辞めて働くことを認めさせることは並大抵のことではなかったに違いない。
 彼女の方も父親はN○Kのアナウンサーであったので、なおさら彼にとっては大変だったことだろう。
 彼の頑張り=説得と私の援護射撃=就職先確定によりUちゃんは大学を辞めた。就職して何ヶ月後かに晴れて彼女と結婚した。
 結婚式ではテレビで見たことのあるアナウンサーの方が式の司会をされていた。いい結婚式であった。
 あれからもう10年以上の歳月が過ぎた。Uちゃんはバリバリ仕事をして大阪市内にマンションを購入して今は3人の子供たちに囲まれて暮らしている。
 奥さんとなった彼女からは、「あのとき○○さんの一言があったから今の私たちがあるのだと思います。本当にありがとうございました。」と以前電話したときに言われたことがあった。
 人の将来=幸せはどうあればいいかなどということは本当のところ誰にも分からないと思う。
 その人のためを思うが故に間違った選択をさせてしまうことだってあるかもしれない。Uちゃんにとって私は、近すぎず遠すぎずの存在であったのではないだろうか。
 程よい距離にいることで、客観的に彼のことを判断できたことがきっとよかったのだろう。
 教育に携わる今の私には正にこの程よい距離を生徒との間に保っていくことで、生徒一人一人に明るい将来への「切符」を持たせてやることができるのではないかと思う☆
 そしてその「切符」は21世紀幸せの駅へと必ずや導いていってくれるに違いない♪
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第16話((あれっ))

2008/05/13 00:16
 中学に入って初めての授業は国語だったと思う。ヘレンケラーの話が教科書に書いてあった。
 自分は目も見えるし、耳も聞こえる。この当たり前のことがどんなにありがたいことかよく分かった。
 ヘレンケラーに恥ずかしくないようにちゃんと勉強しようと思い、中間テスト=中学初のテストはがんばった☆
 結果はよく覚えていないが、確か5教科のうち国語以外は100点だったと思う。やはりヘレンケラーの問題は全部できないよな、と当時妙に納得していた。
 私は学校のテストを受ける際には、いつも出題する先生のことを思って勉強していた。そうすることで試験勉強におもしろみをもたせることができた。
 あと数字を覚えるのが結構得意だったので、例えば音楽の♪でドを1、レを2のように置き換えて覚えたりしていた(笑)。
 家では祖父があまり勉強するのを好ましく思ってはいないようだった。「1日2時間以上勉強するのは毒だ!」などと祖父からよく言われたのを覚えている。
 だからと言って勉強しなくてもいいということではなかった。祖父は、「たとえ短時間の勉強でもそれを毎日やり続けることが大切だぞ。いかなるときでもやれるようになれれば本物の実力者になっているはずだ。」と私に言ったことがあった。
 私はそれを小さいときから守ってきていた。そりゃ風邪をひいて熱が出たりしたときは勉強しなかったが。
 季節はいつの間にか過ぎ去り、3学期になっていた。中1最後のテストは実力テスト=対外模試であった。
 1日で5教科全てを受験するので結構疲れるだろうな、いやだなぁと思って、その日は学校に出かけた。前日に祖父は私の気持ちを察してか、「試験受けるのいやなら学校休んでもいいぞ!?」と言ってくれた。
 試験が始まった。まずは、国語のテストであった。テスト問題の字が緑色なのには驚いた。ちょちょいといつもの具合に問題を解いてのんびり見直しをしたりしていた。
 なんか実力テストの割には時間があまるなぁと思っていた。ひょいと隣のやつを見てみたとき「あれっ」と思った。なんと裏にも問題があることが分かったのである。
 私はあわてた。それまでテスト用紙はいつも表にしか問題がなかったので、まさか裏に問題があるなどとは夢にも思っていなかったのだ。
 しかし、現実、こうして裏に問題があったので、急いで解くしかなかった。試験時間はもう残り5分ちょっとだった。私は見事に実力テストにやられてしまった。
 やられた、と思ったが、いやいや気をとり直してあと4教科点を取りにいくぞ〜と心の中でつぶやいた。
 もうひっかかりはしなかった。平常心を取り戻した私は残り4教科のテストはすんなりとすますことができた。
 家に帰って夕食のときに祖父母に、「テストに見事にやられてしまった。やはり相手=テストの形式を知ることが大切だと思いしらされた。」と話した。
 すると祖父に、「いい勉強になったみたいだな。学校休まんでよかったな(笑)。」と言われた。祖母はただほほえんでいた。
 その後実力テストの結果=成績表をもらった。教室で担任の先生が生徒一人一人に前で渡していった。
 前話(第14話)の演劇部の子とは中1のとき同じクラスだった。私とその子は同点1位になっていた。その子は成績表をもらうと私のとこにすかさず来て、「あんた何点やった!?」と私に聞いてきた。学内トップになれたことがよほど嬉しかったに違いない。
 私は中学に入って初めてテストで人に並ばれた。学校=校内のテストしか受けたことのない私と、塾で実力=対外テストを受けたことのある彼女(中1のときからずっと進学塾に通っていた。)との差がうんだ結果だと思った。
 残り全て満点で何とか切り抜けたつもりでいたが、やはりそう甘くはなかったようである。
 あと1点とれていればと最初は思ったが、とれなかったことで彼女は初の校内1位を獲得できたのだから、メデタシメデタシと思い直した。
 相手=テストの形式を知ることは、今の世の中では情報をいかにうまくキャッチできるか、ということを意味しているのではないだろうか。
 そのコツであるが、私なりに分かったことは、
 @毎日わずかでもいいが必ず継続して努力すること。
 Aときには思わぬ失敗にみまわれてみること。
 Bそして何よりも大切なことは、その情報を一人締めすることなく仲間と分かち合うことのできる豊かな心を持ち合わせているか、ということ。
 であった。
 21世紀、高度情報化社会に向かっていく今を愛する人々と心豊かに生きていきたい♪
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第15話((悪役))

2008/05/13 00:15
 中学1年生の2学期が始まって間もなくの頃、国語の授業で朗読をさせられた。
 その日の昼休みに校内放送で職員室までくるようにとの担任からの呼び出しがあった。私は、また何かしたかな!?と思いながら職員室に行った。
 担任を訪ねると、国語の先生と一緒だった。担任の先生から、「さっきの授業ですごく本読みがうまかったそうじゃない。それで頼みがあるんだけど、演劇部に入ってくれんかね。」と言われた。
 それを聞いて、「はぁ?」と私はとっさに答えた。何でまた自分が演劇をしないといけないのかさっぱり分からなかったからである。だいいち私は卓球部に既に所属していた。
 「実は演劇部には今男子が一人もいなくて困っているのよ。今年やる劇も男子役を女子に変えて練習しているのよね。」と担任の先生は言われた。
 そんな中、演劇部担当の先生が話に加わってきた。その先生に、「どうかお願いします。部を助けてやって下さい。」と言われた。
 困っているのを見捨てるのはしのびなかったので、「じゃ、やってみます。でも卓球部もあるのでその点考慮して下さい。」と私は言った。
 翌日から卓球部の練習後、演劇部にいくことになった。2時間近く運動をした後の演劇であった。発声練習は腹筋運動にもなるからまぁいいか、などと気楽に考えてやっていこうと思った。
 家に帰るのは当然遅くなる訳だが、祖父には演劇をやり始めたなどとは言えなかった。なぜなら明治生まれの祖父は、質実剛健=硬派そのものだったからである。
 祖母には頼まれてしぶしぶ演劇をすることになったと話をした。祖母は「大変やねぇ。」と笑いながら私に言った。
 それから2年が経ち私は3年生になっていた。部員数も増えていた。男子部員も何人も入部していた。
 運動部員にとっては夏の大会が最後だが、演劇部は2学期までその活動があった。発表会に向けての練習は秋から冬にかけてがメインであった。
 中3のメンバーは受験があるので、私以外はみんな塾に通っていた。私は卓球の練習もなくなっていたので、演劇の活動に時間をかけることができた。
 その頃には祖父にも何とか演劇をやっていることを理解してもらっていたので、心おきなく活動に専念できていた。
 発表会も間近にせまってきていたある日、部員のみんなが一生懸命各自の分担のことをやっている最中、「私塾があるから帰らないと。」と言って、一人の中3女子部員が帰ろうとした。
 その日は前々からみんなで残って仕上げをしましょう!!ということになっていた日であった。
 私は、「なんで帰りよる。ちゃんと最後までおりや。」と強い口調でその子に言った。彼女は前々から結構わがままを部の中で通してきていた。親が教師で演劇部担当の先生と知り合いだったから、多めにみてもらっていたのだろうが。
 今日この人を帰したらこの人のためにならんし、全体のまとまりも失われてしまうから絶対に帰したらいかんと思いつい強い口調になってしまった。
 その部員の子は、少し半べそになって残っていた。それを見た私は、後日、先生(担任)にまた何か(演劇部担当の先生から担任の先生に回ってのこと。)言われるだろうなと思った。
 しかし意外や、担任の先生からは何も言われなかった。私の担任はどちらかというと演劇部担当の先生とは馬が合っていなかったようで、それが幸いして私はおとがめ無しってことになったのだろうか(笑)。
 月日が流れ高校生になって暫くたって町でたまたまその子に会った。彼女は予定通り進学校に合格してその高校に通っていた。私も一応進学校にいっていた。(祖父・父と通っていた同じ学校。)
 「久しぶりやね、元気!?」と私は話かけた。それに対して彼女は、「まぁ、なんとかね。」と答えた。
 「ふ〜ん。」と私は小さくうなずいた。すると彼女は、「あの中3のときは、なんてひどいヤツと思ってたけど、今は私が悪かったと思ってるから。じゃ、元気で!!」と言って行ってしまった。
 後で知ったのだが彼女は高校に入ってから成績はそれほどよくなく、部員で一緒に同じ高校にいった子に「世の中、勉強だけじゃないよね。」と言うようになっていたそうである。
 本当に相手のことを思って発した言葉であれば言われた当初は憤慨するようなこと=納得できないことでも時間がたてば相手が言っていたことを十分理解できるようになれるのではないだろうか☆
 そしてその言葉を誰かが言わなければならないのなら、私はこれからもあえて「悪役」になろうと思うのである♪その人の未来(あした)への幸せのために!!
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第14話((炊飯器))

2008/05/13 00:14
 学生時代にはよく一人旅をしていた。何気なくぷら〜っと出かけて、何かしらの刺激を受けて、それをバネにまた物理にいそしんでいた。今回はその旅の中から一つ綴ることにしたい。
 私は関東地方に行くことはめったになかった。東京の人の多いイメージが勝手に頭の中にできあがっていたからだ(笑)。
 そんな関東地方になぜか行きたくなって、「ぷらっと一人旅」に出かけた。行き先は小田原方面であった。
 京都からJRで適当に乗り継いで行った。旅はその目的地に着くまでの途中も十分楽しめる。電車に乗ってくる乗客の様子を見聞き(=その地方の言葉を聞いたり)するのは面白かった。
 また、電車の窓から見える景色を眺めながら物理のことをボ〜ッと考えるのもいい感じであった。
 小田原の散策を一通り終えた私は、とあるデパートに入った。別に何かを買おうと思って入ったわけではなかった。
 電器製品の好きな私は自然と電器製品の階に足を運んでいた。あちらこちらの製品をキョロキョロ見ていたが、あるショウウィンドウの中に展示してあった物に目がとまった。
 それは、電気炊飯器だった。メーカーはナショナルであった。
 学生生活を送るようになって一人暮らしを始めた当初、祖母が1合炊きの電気炊飯器を持たせてくれた。ご飯の好きな私はこの炊飯器では、お茶碗2杯分にしかならないので、もうちょっとご飯が食べたいと思ったら、再度ご飯を炊かなければならなかった。
 だから、もっと大きい炊飯器があればいいのになぁと思っていたのである。
 5合炊きのその炊飯器を見たとき、「買って〜!!」とまるで炊飯器が私にしゃべっているような感じを受けた。ピ〜ンときた思いがした。
 「よし、これを買うぞ〜!!」と心の中でつぶやいて、直ぐに公衆電話から祖母に電話をして郵便局の自分の口座に21,000円入れて欲しいと頼んだ。
 当時1ヶ月6万5千円で生活していたことを考えると、この炊飯器の値段はそこそこ高かったようだ。
 祖母は私の頼みを聞いてくれなかったことはなかった。祖母いわく、私が考えた末での頼みであろうから、間違いはないはず、とのことで聞き入れてくれていたのだ。
 お金をキャッシュカードでおろしてその炊飯器を買った足で京都に戻って行った。旅行はもうおしまいであった。私は、この炊飯器ではやくご飯を炊いて食べたかったからである。
 以来、その炊飯器は私の下で20年以上もご飯を炊き続けてくれた。ナショナルは私の好きなメーカーである。いいものは少々高くてもずっと使用できる長持ちくんである。
 今の時代、携帯電話機をはじめ、多くの商品が短期的消費を目的に作られているのではないかと思えてならない。
 気にいったものは長くもつことでその味をだし、持ち主にさらなる心地よさを提供してくれるのではないだろうか!? 
 ものを大切にする心が、しいては人を大切に思う気持ちを持たせ、勝ち組・負け組ではなく、「共生」の道を開いていくことにつながっていくのではないだろうか♪
 自身と相手を大切にした「共生」の道を歩めるよう私もさらなる努力をしていきたい☆
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第13話((雨降って地固まる))

2008/05/13 00:13
 梅雨の時期になるとふと思い出すことがある。
 会社を設立してまだ半年も経たない頃、とある地方議員さんとその奥さんのお友達にPCのお世話とサポートをして欲しいとの依頼がきた。
 当時、会社の運営が軌道にのるまでの間ということで、関西から友人が応援にきてくれていた。その彼がとってきた仕事であった。
 私はデスクトップパソコンをハンドメイドにより提供していた。メーカーのPCではなくオリジナル的なものを好むお客さんにとってはこの手作りパソコンはうけがよかった。
 が、そういうお客さんはある程度パソコンのことを知っている人たちであった。
 だからこの話を聞いた時、「普通のお店で売ってるPCでいいんじゃないかな!?」と友人の彼に言ったが、彼は、「それではうちのアピールにならないし、もう話を進めてしまったから。」と言い返した。
 私は、彼がせっかくとってきた仕事なんだし、とこの件を承諾した。
 商品を無事納品してその後のサポートもやっていた最中、議員さんの奥さんがうちのPCにケチをつけてきた。奥さんは、PCは全く使用していなかった。
 私のところのPCが高かった、というのがクレームの全てであった。そこを通してあと2台納品していたが、3台とも返品の上、支払い代金を全額返金して下さい、という連絡が入ってきた。これには驚いた。
 既に納品して1ヶ月以上経過していたので、めちゃくちゃ言いよるな、と少し憤慨した気持ちになった。
 私は、議員さんにはお世話になっていたが、奥さんとは殆ど面識がなかった。家の中のことは奥さんが仕切っていたらしく、議員さんはこの件に関して何も言ってはこなかった。
 友人の彼に、「議員さんの立場を考えて、この件は奥さんの言う通りにしとこう。段取りの方宜しく頼みます。」と言った。
 それに対して彼は、「お金返さんでもええんちゃうの!!」と聞いてきたので、「今は損をしよや。」とだけ答えた。
 梅雨のある雨の夜、私は議員さん宅にPCを引き取りに行った。奥さんにお金を渡してPCを車に詰め込んでさっさと戻ろうとしたとき、議員さんが玄関から出てきた。
 車に乗ろうとしていた私に議員さんは、「○○くんすまんね、許して欲しい。」と言って深々と頭を下げられた。
 私は、「気になさらないで下さい、私は大丈夫ですから。」と言い、笑顔で別れた。 
 帰りの車の中で、「この仕事はすべきではなかった。しかし、承諾したのは私なのだから、責任をとらねばならないのは当然である。」と思った。そして、「今後このような失敗をしないよう心がけていこう☆」と決意した。
 この件は、私のその後の仕事のあり方を決定するものであった。
 それは、私の直接知りうる範囲のお客さんとの関係において我が社はうまくやっていくことができるのだ!!ということであった。
 このやり方では会社を大きくしていくことは無理に違いない。だけど、小さくても堅実な会社にはしていけるはずである。
 みえないお客さんではなくて、傍にいるお客さんへのサポート=心と心がふれあえる、そんな仕事にこれからもずっと携わっていきたい♪
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第12話((若者への言葉))

2008/05/13 00:12
 大学(学部生)のとき、会社案内か何かで某電気メーカーを訪ねたことがあった。
 いろいろ説明を聞いて最後に副社長のお話ということになった。その会社は兄弟で経営をされていてその当時、お兄さんが社長で弟さんが副社長であった。
 副社長さんは、「うちの会社に入って、是非みなさんの力を思う存分発揮してもらいたいですね。」と言われた。私自身はその会社に入りたいなどと思ってはいなかったが、そんなふうに言ってもらえることは光栄なことだと思った。
 その後話が続いて、「うちの息子も今ちょうど皆さんと同じ学生生活をおくっています。私は息子にすすめてさせているアルバイトがありますが、なんだかわかりますか!?」と私たちに尋ねられた。
 なんだうかな?って考えている間に副社長さんが話し出した。「それはですね、コカコーラの運搬の仕事です。その仕事は結構きついですよ、夏は汗ダクになりますし。でも私は、息子にその仕事を通して、下の者の立場や気持ちを理解してもらいたいと思っているのです。いずれ経営者となって人を導いていかなくてはならなくなったときにその経験は、きっと大いに役立つに違いないからです。」と。
 私はその言葉にずっしりしたものを感じた。おそらくその場にいた他の人も同様であったろう。
 我が子の将来を真に思いコカコーラのアルバイトをさせている副社長さんの愛情の深さを感じたのと同時に、人の上に立つことの厳しさを実感させられた。
 帰り道に「自分も副社長の息子さんのように地道にコツコツやらねばならないぞ!!」と心の中で何度もつぶやいていた。
 今(当時)の自分にできることは、物理の基本にもう一度立ち戻って自分なりの思考の構築を形成していくことで将来の糧としていくことである、と考え勉学にいそしんでいった。
 幸い自分には向いていたのか物理の力をつけることができ、学問=物理学としての領域にやがて到達していくことができた。
 やがて教育の仕事に携わるようになった私は時々この副社長さんの話をする。生徒たちに、
 @将来人の上に立っていことうと思うのであれば、まず人から使われてみること。
 Aそれを通していやな思いをしたならば、自分ならこうしたり言ったりするのにな、と考えていくこと。
 B逆にいいな、と感じたことは大いに参考にして自身に身につけていくこと。
 の3点を含めておもしろおかしく話す。
 これからの日本の将来を担うリーダーとなっていく若者たちには是非、人のいたみのわかる人間として生きていって欲しいと思うから。
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第11話((先生として))

2008/05/13 00:11
 小さいときからチョコレートが好きだった。そのせいで虫歯になり10歳の夏(小4の夏休み)、私は歯医者にすっかりお世話になってしまった。
 虫歯だらけの歯をみた歯医者さんは、「こりゃ痛いやろあちこち。よう我慢しとったね。」と言われた。
 私はこれからの治療での痛い思いのことが頭からはなれず今の痛みはなんだかそっちのけになっていたので、「はぁ。」とだけ答えた。
 治療は何をどうしていったかもう記憶にはないが、痛かったということはしっかり覚えている。注射をしていてもキィ〜ンとくる痛みは涙が出てくる程のものだった。
 子供ながらに、こりゃ治療が終わるまで大変だ。だけど辛抱するしかないし、とにかくがんばろうと思った。
 夏中かけて私の虫歯治療は一応終わった。すんだときには心底ほっとした。
 そして今後はちょっとでも変だな=痛いと思ったら歯医者にすぐ行ってみてもらおうと強く思った。
 その後京都で歯医者に行くことになったが、行った所が悪かったのか、俗にいうヤブ医者=へたくその治療であった。
 祖母の知人であったあの歯医者さんはうまかったんやなぁとつくづく感じた。(30年近く治療してもらったとこは大丈夫であった。)
 歯の痛みには不思議なことがある。ここが痛いと思って歯医者に行くと実は別の歯だったりする。これは脳の錯覚(勘違い)なのだろうか。
 歯の痛みの錯覚は歯医者さんに行けば一目瞭然に分かる。が、もしこれが人生=生きていくうえにおける錯覚(勘違い)だったらどうなるだろうか。
 錯覚を錯覚だと分からせてくれる人が傍にいればよいのだが、そうそう自分に合った名医はいないのではないだろうか。
 私はナショナルの創始者である故松下幸之助氏の書いた書物を通してその錯覚を錯覚だと分からせてもらったことが何度かある。
 人をどうしたら幸せにできるか、その一点で物事を眺めれば、今己が何をなすべきか自ずと分かるものである。これは私が尊敬するその松下氏の多くの言葉から得た結論であった。
 松下氏のように世界中の人々に対して幸せの発信はできないかもしれないが、せめて私を信じてついてきてくれている方々の幸せを常に念頭において生きていきたいと思うし、そのための日々の努力を決して怠ってはならない☆
 少なくとも人から先生と呼ばれている私だから。
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第10話((信じる心))

2008/05/13 00:10
 今の社会の中で車はなくてはならない存在だと思う。今回は私の車の免許取得に関わる話です。
 教習所は毎週土曜日が開講日であった。入校日の初回の簡単なテストで、「信号の黄色は止まれという意味で、赤は止まっているという意味です。」と担当教官が言われた。
 自分は、黄色が注意で赤が止まれと思っていたので違うんだと思った。物理をやっているとこれと同じようなことを時々体験していた(日常の常識と思えることが、物理=自然界の常識では間違っていることがあったりすること。)ので、免許取得もフラットな気持ちで受けいれていこうと考えた。
 教習は1回50分の実習になっていた。モニタを見て希望の日時と教官を選ぶ仕組みだった。私はどの教官を選んでもたいした違いはないだだろうと思い適当にS教官を選んだ。
 そのS教官との初回の実習で、教官と気が合わないことが分かった。私よりもむしろ教官の方が相性が合わないと強く思ったのではないだろうか。
 いやなら教官を別の人にすればいいのだが、私は初志貫徹を決めていたので、この人でいやになりまくってみようと思った。
 S教官からは実習中しばしば皮肉のようなことを言われた。「運転に向いてないんじゃないですか。」などは毎回言われたような気がする。
 よく考えてみると私は自動車というものをよく知らなかった。祖父も祖母も免許を持っていなかったので、家にはもちろん車はなかった。
 だから車のドアを開けて乗ることもそうそうしたことはなかったので、初心者そのものであったのだ。
 S教官に「教官の言われる通り私は車を運転するのに向いてないかもしれません。ですが車は今の社会では必要不可欠のものになるでしょうから免許を取りたいと思いこの教習所に来ました。向いてないと思うからより慎重になれると思うのでこれからもビシビシ言って指導して下さい。」と言った。
 私は今S教官にとことん言われていれば免許を取ったとききっと自分に役立つはずだからと信じていた。
 そんな中いつものように教習所に行き、S教官を車の側で待っていた。
 すると私の前に別の教官が現れて、「今日は私が同乗しますから。」と言われた。あれっと私は思ったが、教習はしないといけないので車に乗り実習をした。
 代わりの教官はS教官とは全然違い、優しい対応だった。「ちゃんとできてますね。」と終わりがけにその教官は私に言われた。私は、「そうですか、ありがとうございました。」と答えた。
 その日の帰り道に思った。S教官がいかに厳しくやっているのか。そしてそれが自分のためになっているので最後まであの人に習うぞ!と。
 その後仮免→本免(実技)までさらにずっとS教官の指導のもと私は無事に教習所での内容を終えることができた。
 期間を通していつも注意ばかりされていたが、@仮免のペーパーテストで満点だったことと、外に出ての実習の時、A電信柱と電信柱の間隔がどれ位か知っていたことと、Bテキストにはのっていなかった車道外側線のことを答えられたことの3点はほめてもらえた。
 自動車の免許がとれたその日にS教官にお礼を言いに行った。S教官は、「よかったですね、運転には気をつけて下さい。」と初めて笑顔を見せてくれた。そしてあの1回の別の教官との実習はS教官がわざとしたことであることも聞いた。あれで別の教官から指導受けるのもいいかと思ったそうだ。かわらなかった私のことをシツコイやつだなぁと思っていたそうである。
 私は、「そうだったんですか(笑)。でもそのおかげで今日免許を無事にとることができたと思います。本当にありがとうございました。」とS教官に言った。
 あれからもう何年たったことだろう。今でも車を運転するとき、S教官から言われたことを思い出す。私の身体の中にS教官の教えがいきている、そんな感じである。
 私は多少なりとも人にものを教えることに携わっている。だからS教官のように今は分からなくても将来必ず役にたつことを相手に伝えていきたいと思うのである。そこに真の教育があると信じているから☆
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第9話((初仕事))

2008/05/13 00:09
 高1のとき新聞配達をしたことがあった。友人から頼まれて夏休み前から2ヶ月程度やった。
 早起きするのはそれなりに気持ちのいいものだった。夏だからそう感じていたのかもしれない。
 高校に入ってから運動らしきものをしていなかったのでいい運動になると思いがんばった。が、運動だけではなく+αのことを学ばせてもらった。
 それは、迅速に・正確に・丁寧にの三つの「に」が新聞配達には欠かせない大切な要素だということであった。
 雨の日には1部ずつ薄いビニール袋に新聞を入れて配った。新聞のくるのを待っている方がいることも知った。
 私は新聞を殆ど読んだことがなかった。中3の時、受験勉強に役立つからと朝日新聞の天声人語の要約をする課題が国語の先生からだされた。冬休みの宿題だったと思う。
 その課題、私は一つもできなかった。天声人語の部分を切り取ってノートに貼って何も書かずに提出した。国語の時間にものすごい剣幕で先生に注意された。
 どういうつもりでこんなことをしたのか?というようなことを聞かれたので、私は、「天声人語はそれで既に完結された文章のように思えてとても要約などできませんでした。しかも天声人語を書いている方たちはそれなりの人でしょうからますます書けんなぁと思ってしまいました。」と答えた。
 先生は真っ赤な顔をして、「ふざけるのもいい加減にしなさい。」と言われた。私はその授業中ずっと立たされてしまった。
 先生には申し訳ないと思ったが、できないものはできなかったので仕方ないと思った。ただ天声人語はその期間の分全部読んでいた。そのことは分かって欲しかった。
 そんなこともあったので、朝日新聞を配りながらちょっと不思議な感じがしておかしかった。
 祖父から「新聞配達はどうか!?」と尋ねられたので、「いい勉強になっとる。やれてよかったよ。」と答えた。
 どんな小さな仕事でもそこから学ぶことは必ずあるはずだ。しかし、学ぼうとする姿勢がなければそこから学ぶことは難しいのではないだろうか。
 新聞配達をしてもらったアルバイト代で私は眼鏡のレンズを替えることができた。初めて自分で稼いだお金で買ったものであった。
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第8話((不意の別れ))

2008/05/13 00:08
 夏休みの終わった中3の2学期ともなると殆どの人が塾に行っていて、塾に行っていないのは自分と友達の二人になっていた。
 その友達は勉強はさっぱりだった。が、気持ちのほんとに優しいやつだった。
 祖父から「塾に行かせるお金はうちにはないからな。」と私は言われていた。塾に行きたいと私は思ったことはなかったので、むしろほっとしていた。心の中で、「じいちゃん、あんがと。」とつぶやいた気がする。
 学校が終わってからその友達とよく遊ぶようになった。特にこれといったことをしていたのではなく、お菓子を食べてただ喋っていたような感じがする。
 私は勉強は何故か分からないが、よくできていた。というより、点を取るのがうまかっただけかもしれない(笑)。担任の先生から、「(その友達に)遊びがてら宿題教えてあげてね。」とか言われたりした。
 しかし、その友達は大の勉強嫌いであったので、宿題をさせるのには苦労させられた。すぐやるのを止めようとして別のことに話題をかえるので、本当に少しずつしか勉強は進まなかった。
 が、このことが今の仕事に役立っている。そう思うと、人生無駄なことなど一つもないに違いない。
 やがて冬になり私は入試を間近に控えるようになっていたが、その友達は高校進学をしないことになっていたので、私は相変わらず彼と一緒に過ごしていた。
 彼は何故か私の入試勉強に付き合ってくれるようになっていた。勉強は彼が私に質問し、それに私が答えていくというものであった。
 このやり方は私にとっては入試のまとめのようになってありがたいものであった。彼の?に答えることは入試問題を解くよりも難しいことのように思えることも多かったのだが。
 勉強の合間によく肉マンを一緒に食べた。その友達は、「おまえホントによく勉強できるもんね、なんでやろ!?」と肉マンを食べながら私によく言っていた。私は、「運がいいけ点がとれよるんやない。」と笑いながら返事をしていたのを覚えている。
 今思えば、学年どんビリとトップの面白いツーショットであった。私は彼のことを気にいっていた。
 私につきあってくれている彼のためにも頑張ろうと思っていた。目標として、入試前最終回の実力テスト(対外模試)で自己ベストをだすこととした。
 結果は、学区1位の自己ベストで締めくくることができた。その友達は我がことのようにその結果を喜んでくれた。
 彼は今どうしているのだろうか?私が高1の時彼はある傷害事件を起こしてしまって家族もろともいずこかに行ってしまった。
 「100円貸して欲しい。」と言って、私の登校途中に会いに来たのが彼を見た最後であった。その後、彼は事件を起こしたのだ。
 あの時彼の変化に気付き、学校をさぼってでも彼の話を聞いてやっていたら事件なんか起こさなかったんじゃないか、と何度も考えた。
 この空の下、どこかの地で彼に今も優しい気持ちを忘れずに元気に過ごしていてもらいたい。
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第7話((仕事こと始め))

2008/05/13 00:07
 京都から戻って暫く仕事もなく過ごしていたある日のことである。小・中学生の登校している姿を何気なく見ていた時、ふと思った。子どもの勉強なら教えられる、これをやってみよう!と。
 京都にいた時、塾の手伝いをしていたことがそういう気持ちにさせたのであった。今自分にできることをやってみようとの思いで、私はパソコンでドリルのようなものを作っていった。
 当時、「不登校の生徒に何かやらせるいいものはないかねぇ?」と知人の教育委員会の恩師に言われたことがあったからだ。
 不登校の生徒にPCを貸し出してそのドリルを課題として与え、1週間に一度家庭訪問をするかたちで学習指導をしていくことを考え、実行していった。
 1日2〜3人を目安に頑張って指導してまわった。生徒は、知り合いルートを通じて紹介してもらっていた。そんなに多くはみれないので自分としては丁度いい人数だった。  
 生徒の中には人間不信となっていた子もいて部屋に入れてもらうのに3ヶ月もかかったこともあった。
 生徒とちゃんと向き合うことでやがて信頼関係が生まれ、勉強をするようになって、しいては学校へ行ってくれるようになった時は、ああこの子をここまでみれて本当によかったと思った。
 そして、自分も人のために役立つことが少しはやれているんだと思い、さらなる努力をしようと考え始めていた。そう、これがフリースクールの出発点だった。
 夜、ひとしきり降る雨の中を歩きながらある決意をした。それは、人のためになることをコツコツやっていけば必ず道は開ける、無職に近い今の状態から3年以内には形のあるものにきっとしてみせるぞ!、というものだった。
 翌年から朝・昼は非常勤講師をし、夜はフリースクールの生徒をみていった。少々しんどかったが、毎日が充実していた。気持ちはいつも頑張るぞ〜とはりきっていた。
 やがて3年、32歳の秋、私は有限会社を設立した。
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第6話((電器屋さん))

2008/05/13 00:06
 子供の頃から電器製品をいじる(ばらして元に戻す)のが好きだった。かめのおもちゃを元に戻せなかった時のことである。祖父から「元に戻せないのなら分解するな!」と言われた。
 ばらしている間に元に戻す時のことを考えずにやってしまったために元に戻せなくなってしまっていたのだが、その時はそのことに気づかなかった。
 祖父に言われたこともあったが、それからは慎重に分解することにした。数学に証明というものがある。結論が分かっていてその結論までのプロセスを導くものである。それと分解は同じようなものであると気づいていった。
 小学校高学年にもなると結構手先も器用になって分解して戻すのが面白くなっていた。
 やがて高校生となった私はとある電器屋さんによく通うようになっていた。そこの店長さんがすごく電器製品に詳しい方でその上電気のことにも精通していたので私はいろんなことをその店長から教えてもらえた。
 私はやがてこの電器屋さんで働けたらなぁと思うようになっていた。高2の頃にはかなりのレベルまでいっていたようで、店長さんも冗談っぽく「ここで働けるね、もう。」とか言われるようになった。
 ここで働くぞ!という気持ちが強まっていった。店長さんに「本気でここで働きたいと思います。」とやがて打ち明けた。それに対して店長さんは、「それは嬉しいねぇ、でもきみは大学にいくべきじゃないかな!?大学を出てからでもうちには就職できるからさ。」と言われた。
 後に知ったのだが、店長さんは大学にはいってはいなかった。だから大学にいける者はいく方がいいと思われていたのだろう。
 「電気のことにもっと詳しくなるためにも大学にいった方がいいと思うよ。」という店長さんのさらなる言葉にそうした方がいいんだろうなと思った。
 高2の春休みに進学を決めた私は大学に進学し大学院にさらに進学した。大学院3年目(博士課程後期1年)の冬、当時人気のファンヒーターが欲しくなった。帰省した私はその電気屋さんに買いに行った。
 ホワイト系の色の方がどうしても欲しかったのだが、超人気で品切れとのことだった。コンピューター検索にて全店舗の在庫を調べてもらったが、やはりなかった。
 がっくりした私は翌日かつて店長だった方=おいちゃんが今いる店舗に出かけて行った。
 おいちゃんは本店の店長になっていた。気楽に「こんにちは。ご無沙汰しています、おいちゃん。」とか言ってしまった。おいちゃんは出世してその時常務取締役になっていた。
 気さくなおいちゃんは私の申し出に対して、「分かった、すぐその色の分送るように手配しといてあげるから。」と言ってくれた。
 「でも全店舗でないってことでしたが、大丈夫ですか?」と私は聞き返した。すると、「大丈夫やけ。」と笑顔で答えてくれた。
 京都に戻った翌日に確かにその色の製品が届いた。嬉しかった、と同時に、おいちゃんやるな!と思った。
 今思えば一部上場した大企業の常務になっていた方においちゃんはなかったが、以前から知っていたことがそれを許してくれたのだろう。
 人と人との出会いは不思議なものである。あの時のおいちゃんがまさか常務になるとは思ってもみなかったからだ。
 おいちゃんのように電器屋さんに勤めることにはならなかったが、今もあの頃の店長さんのアドバイスは私の中で生き続けている。
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第5話((学問への船出))

2008/05/13 00:05
 京都での一人暮らしにもだんだん慣れたきた頃のことだった。とある集まりで私は一人の先輩と出会った。この出会いこそ私の大学生活に最も大きな影響を与えるものとなるのだが、当初は単なる先輩・後輩のものと思っていた。
 高校まで数学は得意中の得意だった。中3の夏に高1の内容まで勉強して冬休みにはテレビのNHK高校通信講座(微・積)をみたりしていた。その後高1の半ばで高校の数学の内容は一通りやり終えた。
 しかし、私にはどうも数学というものがみえていなかった気がする。ひろがりを感じることができなかったからだ。
 集まりの後、偶然その先輩に会った。その時どいういきさつであったかは覚えていないが、先輩の下宿先に行くことになった。
 先輩のところでいろんな話を聞いた。大半が学問的なことだったが、自分にはとても新鮮で興味深く思えた。
 いくつか質問をされた。自分の分かる範囲で素直な気持ちで正直に答えていった。学部生の私にとって既に院生の先輩はレベル的に段違いに思えていたからだ。
 先輩は私に言われた。「きみ物理やってみらんね。向いてるちゃうん!?」と。
 私は、「そうですかね。」と答えた。
 先輩は、「俺より多分できるようになると思うわ。だから明日から一緒にやろや、物理☆」とさらに言われた。
 これがきっかけで、私は物理をやるようになっていったのである。最初は、高校の教科書の精読からであった。@どの部分があいまいであるのかを指摘すること。Aそしてその部分を的確に示すこと。
 この二つを徹底的にやらされた。厳しかったが実に熱心に指導してくれた。明け方まで先輩のところで過ごすこともしばしばであった。
 そんなありがたい先輩ではあったが、唯一困ったのは先輩がヘビースモーカーだったことである。煙草を吸わない私にとっては、先輩の所から戻った時頭のてっぺんからつま先まで煙草のにおいだらけになってることは悩みのたねであった。
 先輩は光学(応用物理学)が専門であった。「自分は企業に入るしかないが、きみは基礎をしっかりやりや。」とよく先輩は私に言われていた。*基礎とは理論物理学のことである。
 先輩はその言葉通り、修士を終え、とある企業の研究室にいかれた。私は先輩の言葉を信じて物理をやり続けていた。物理はいつの間にか物理学になっていた。
 物理学をやるには数学がどうしても必要である。今思えば何故に先輩が私の方が物理をやるのに向いていると言ったのかが分かるような気がする。それは私の方が数学ができると先輩は思ったからなのだろう。
 数学をやっていたことは無駄にはならなかった。一見無駄に思えることがその後役に立つことも多々あるのではないだろか。
 学問することの素晴らしさを身をもって示し、とことん指導してくれた先輩に今も感謝しています。
 先輩はその後主任研究員となり世界で初となるものの開発に成功されました。
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第4話((優しい眼))

2008/05/13 00:04
 子供の頃学校に行くのがあまり好きではなかった。不登校児になっていたわけではないが風邪を引いたら多めに休んでいた。1週間位休んだこともあった(笑)。
 そんな私を認めてくれた小学校3・4年の時の担任の先生との思い出を今回は綴ることにしたい。
 算数が結構好きでおもしろおかしくその当時勉強していた。乗数で面積が2乗、体積が3乗となることを知った。その次の4乗って何かなぁと思って算数の授業の時先生に質問した。
 同級生の友達は、「そんなんないに決まってるやん。」みたいなことを言った。確かにそうなのだが、だったら何故ないのかも含めて私は知りたかったのだ。
 先生の答えてくれた言葉は今はもう覚えてはいない。しかし、私の納得できる内容であったことは確かであった。先生の眼は優しく私を見てくれていた。私は先生は私のことを認めてくれているんだと思った。
 物理を多少なりにもやった今思えばこの質問はナンセンスなものではなかったのだと分かる。
 勉強のレベルでは無視されてしまうことが学問のレベルでは大切なこともある。だから子供の何気ない質問の中に実は真に迫る重要なことが含まれているかもしれない。大人はそれを見極めてあげられなければならないがなかなかそこまでの人はそうそういないのも事実である。
 私は運よくその人に巡り合うことができた。物事をじっくり考えていくことの大切さと、裏と表の両面から物事をとらえることの必要性を先生は私に教えてくれたのである。
 小学校を卒業して何年かたった頃、先生が私に会いたいとの連絡があった。私は先生に会いに行った。先生はそのとき末期ガンで自宅療養中であったのだ。
 何をその時話したのか、これも記憶にないが、やはり先生の優しい眼が私をみつめていたことは覚えている。
 先生は別れぎわに握手をして、「きみの思うように生きていって下さいね。」と言われた。私は一言、「はい。」とだけ答えた。
 それから幾日かたって先生から手紙が届いた。将来なりたい者ということで、私はみんなに喜んでもらえるそんな人になりたいと作文に書いたことがあった。
 他の生徒はなりたい職業とかを書いたのに私だけがそんなことを書いていたので先生は驚いたという内容が手紙に書いてあった。
 そして、「今のその気持ちを忘れずに持ち続けて下さいね。先生遠くから応援してるから。」と書いてあった。
 遠くからという言葉に涙が出てくると同時にそんな先生の温かな気持ちに感謝の念で心が一杯になった。
 「先生、私のことを認めてくれた先生のようになれるよう頑張っていきます。だから遠くからあの優しい眼で見守っていて下さい。」、と心の中でつぶやいた。
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第3話((祖母の言葉))

2008/05/13 00:03
 大学を退き京都から福岡の地に戻ったのはとある年の春だった。戻った当初、気楽に先のことを考えていた。まぁなんとかなるだろうくらいに。
 が、そうはいかなかった。仕事もみつからないまま季節は夏になっていた。雇ってもらえるところがなくて困ってしまっていた。変に長いこと大学にいっていたことが災いしていたようだ。
 周囲の人たちからは、何のために大学院までいったのか気がしれないね、みたいな感じで言われたりもした。
 つらくなって墓参りに行ったのを覚えている。墓の前で手を合わせて目をつむって亡き祖父に今の自分の現状を話してみた。何も返事はかえってこなかった。亡き祖父は無言であった。
 墓から戻った私に祖母は、「英さん、京都から戻ってきてくれてありがとうね。」と言った。その言葉をきいた時、あっと思った。
 人生は自分のためだけにあるのではない、自分を必要としてくれる人と共にあるのだと。今仕事がみつからないのは、祖母の傍にできるだけいてあげなさい、ということなんだろうと。
 そう、祖父を亡くしてまだ悲しみから立ち直れていない祖母と一緒に過ごすことが今は重要なんだと思った。亡き祖父が無言だったのは自分のことしか私が考えていなかったからにちがいないと思った。
 人はともすれば本当に大切なことを見失いがちだ。だからそれを見失わないために人生ときには立ち止まることも必要なのでないだろうか。
 今思えば京都から戻って無職の時代があったからこそ、その後の私があったのだと思う。周りからどのように思われても自分を信じて日々の努力を忘れさえしなければいつかきっと花は咲くということを身をもって体験できた。
 祖母はその後安らかに永眠した。
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第2話((心のふるさと))

2008/05/13 00:02
 私は学生時代を京都で過ごした。その街はかつて祖父と父・母が同様に学生時代を過ごした街でもあった。
 もともと高校を卒業したら働くつもりでいた。とある電気屋さんでである。しかし結果は大学にいってしまった。
 祖父は私が進路を大学進学に変更したいという希望に対して京都にいくのならいいんじゃないかと言ってくれた。
 理由は祖父自身が京都での学生生活を送ったことからきているのだろうとそのときは思っていた。しかしそれだけではなかったことを高校を卒業した時に知った。
 それは父・母が共に青春時代を過ごした場所でもあったからである。
 今思えば私が勉強ができたのは多分に父・母のおかげである。ただあえて自分を評価できるとしたら父・母は文系で私は理系だったから理系科目については自分のがんばりでできていたんじゃないかということだ(笑)。
 祖父母に育てられた私は父・母の面影を京都の町並みや大学のキャンパスの中にみていたような気がする。かつて父・母が訪れたのでないかと思う場所に大学をさぼってよくでかけたものだ。
 そんなことも重なってか私にとっては古都京都は第2のふるさとになったようだ。
 大半の時間を物理に費やしたが、実に多くのことを学問以外にも学べた気がする。心の中に亡き父・母がいつも傍にいてくれて見守られているような気持ちだった。
 感謝しています、私をこの世に残してくれた父・母に。
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